2.夏が揺れる

3/6
前へ
/15ページ
次へ
* 「はじめまして」  そう言って、僕に手のひらを差し出してきたのは、ひまわりのような笑顔の女性だった。  三分の一だけ開かれた窓から吹き込む風が、クリーム色のカーテンを揺らしている。その向こうに広がる青い空と、ソフトクリームのような入道雲。夏の匂い。疲れを知らない蝉の鳴き声が、どこからか聞こえる。  鍵盤から手を下ろし、まじまじとその女性を見つめた。顎の下で切り揃えた、麦色の髪の毛。意志の強そうな眉。アーモンド型の瞳は、僕の目を、たじろぐほどまっすぐに見つめている。 「今日から、あなたのお手伝いをすることになった、宮園です」 「お手伝い、ですか?」  正直、作曲の邪魔をされたくない。  でも、気を悪くさせてしまったら申し訳ないから、どう断ろうかと逡巡していると、その女性が、困ったように眉尻を下げた。 「えーっと、お手伝いって言い方には、語弊があるかもしれません。何て言ったら良いんだろう。……じゃあ、単刀直入に言わせていただきますね」  そして、僕に右手を差し出す。 「私と、友達になってくれませんか?」  その飾り気のない言葉に、胸の奥の何かがざわつくのを感じた。なぜだろう。考えても、頭の中に霞がかかったように、その正体がつかめない。  ゆっくりと右手を伸ばす。小さな白い手のひらが、僕の乾いた手を、そっと包み込む。  花が咲いたような、笑顔。  でもその目の奥には、夏の日暮れのような寂しさが滲んでいた。 *  いつからか分からないが、もうずっと長い間、白い世界の中にいる。  壁も床も天井も、何もかもが白い。頭の中さえも、霞がかかっているかのように、いつも薄ぼんやりとしている。  心の中に、常に蔓延っているのは、焦燥感だ。何かに追いたてられているような、言い様のない不安が、いつも胸の中にある。  僕は、数年前までは、それなりに名の知れたミュージシャンだったらしい。  当時のことは、途切れ途切れにしか思い出せないが、音楽だけは、身体に染み付いているのだろう。今でも歌うことは好きだし、作曲するのは、もっと好きだ。  作曲に没頭している間だけは、心に蔓延る不安を忘れることができた。病室のほとんどのスペースを占領しているグランドピアノの前に座り、開いたノートの五線譜に、音符を書き込む。時々、声を出して歌ってみる。毎日が、その繰り返しだ。ぼんやりした世界の中で、自分が立っている場所を、ノートに記された音符だけが教えてくれる。地図を辿るように、ひとつひとつの音符に指先で触れる。そうやって、自分の居場所を確かめていく。  一日中病室に引きこもり、ピアノの前に座っている僕のことを、両親や医師たちがもて余していることを、僕は当然知っていた。  これまでに、この病室を訪ねてきた人は、数知れない。マネージャーだという女性。学生時代からの友人だという男性。仕事仲間。親戚。その他諸々。  その誰もが、最初は底抜けに明るい顔で「久しぶり」と手を振り、張り切った様子で、様々な話をしてくれる。僕が、ミュージシャンとして活躍していた頃のこと。学生時代の楽しい思い出。僕の作る音楽が、いかに素晴らしく、世間の人々からどんなに愛されているのか、力説してくれる人もいた。  でも、どんな話を聞かされても、心の靄が晴れることはなかった。言われてみれば、そんなことがあったような気もするが、彼らが語る物語は、まるで知らない人の日記を読んでいるかのように、現実味がなかった。  話を合わせて、曖昧に笑う僕に、彼らは驚き、戸惑っているようだった。同情の表情を浮かべる人もいたし、バツが悪そうな顔をして「ごめん」と呟く人もいた。泣きながら、部屋を飛び出してしまった人すらいる。それが申し訳なくて、僕はますます人と会うことを避けるようになった。 「焦ってはいけません」  と、医師は繰り返し言っていた。思い出せなくても、他者と交流し、とにかく会話を楽しむことが、何より重要なのだという。  宮園さんも、僕の気分を晴らすために、母が呼びつけたうちの一人なのだろう。友達だったのか、同僚だったのか、それとも全くの他人なのか、さっぱり分からないが、彼女と会話をしたところで、この焦燥感が消えるとは思えなかった。  しかし、「友達になってほしい」と言った割に、彼女は、部屋の隅のソファに腰掛けて、本を読んでいるばかりだった。  時折目が合うと微笑んでくれるが、何も言わずに、すぐ本に目を落としてしまう。僕に興味があるのか、ないのか、まるで分からない。わざわざ訪ねてきたというのに、一体、どういうつもりなのだろう。  結局、僕は彼女の存在を気にしないことにした。  僕はピアノの前に座って作曲し、宮園さんはひたすら本を読む。互いに干渉せず、自分の好きなことをして過ごすだけの時間が、ゆるやかに流れていった。  二時間ほどが経過した頃、 「また来ますね」  と言って、彼女は去っていった。  そして宮園さんは、本当に、次の日もやってきた。「また来る」という約束を守ったのは、僕が覚えている限り、彼女が初めてだった。  二、三日置きに、彼女は、僕の部屋を訪れてくるようになった。  午後の2時半を過ぎた頃、病室のドアをノックする小気味良い音が聞こえてくる。いつも、彼女が最初にするのは、閉めきった窓とカーテンを開けることだ。朝からつけっぱなしのエアコンの冷気が逃げて、代わりに外の熱気が入り込む。クリーム色のカーテンが、ふわりと膨らみ、床にさざ波のような影を作る。  いつしか、部屋の隅のソファは、彼女の定位置となった。文庫本を開き、ソファに座り続ける彼女の存在は、消毒液の匂いがする病室に溶けて、一体化し、窓から射す日差しと同じくらい、透明なものになった。  記憶にまつわる会話は、一度もなかった。交わされるのは、「暑いですね」だとか「良い天気ですね」だとか、社交辞令程度の挨拶。それと、彼女が読んでいる本についての、短い会話だ。  例えば、 「宇宙人っていると思いますか?」  と、おもむろに彼女が呟く。  彼女が僕に話し掛けてくるのは、大抵僕が作曲に行き詰まっている時だ。まるで計ったようなタイミングで、僕の方に身体を向けて、彼女が小さく首をかしげる。 「1977年に打ち上げられた宇宙探査機のヴォイジャー号には、地球外生命体、つまり宇宙人に聴いてもらうためのレコードが搭載されているんですって。その『ゴールデン・レコード』には、様々な言語での挨拶や、風の音や波の音といった自然の音の他に、バッハやモーツァルト、ベートーベンなどの音楽も刻まれているそうです。言葉は通じなくても、音楽なら伝わるかもしれないという、願いが込められているんでしょうね」 「……へぇ」 「でも、それが宇宙の誰かに届く頃には、地球は滅んでいるかもしれないそうです」  それだけ言って、また読書に戻ってしまう。  僕は、その何の役にも立たない豆知識について、少しだけ思考を巡らせてみる。出会えるかどうかも分からない誰かを求めて、遥かなる宇宙を、今も進み続ける探査機。美しい音楽を内に秘めて、沈黙し続ける、黄金のレコード。その計り知れない孤独に、思いを馳せてみる。  彼女は、僕のことを詮索する素振りすら見せなかった。医者には怒られそうだが、自分の記憶に自信がない僕には、それがとてもありがたかった。  時折、彼女がページをめくる音が、柔らかく響く。窓の外を眺めるふりをして、僕は、その音に耳をすました。真剣に文字を追う眼差しと、長い睫毛を、そっと盗み見た。そうしていると、心の中で吹き荒れる焦燥感が、ほんの少しだけ、凪いでいく気がした。  同じ空間にいる意味なんて、まるでない。でも、そこにいないと、パズルのピースがひとつ足りないみたいに、物足りない感じがする。  気づけば、宮園さんは、僕にとってそんな存在になっていた。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加