2.夏が揺れる

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 その日は、朝から調子が悪かった。  身体が鉛のように重く、だるい。自分を奮い立たせて、何とかベッドから起き上がっても、頭の中が濃い霧に包まれているかのようで、思考がまとまらない。朝の定例となっている診察でも、医師が何を言っているのか、早送りのようで上手く聞き取れなかった。  ぼんやりとピアノの前に座っていると、ノックの音が聞こえた。  「どうぞ」という一言を発することすら、億劫だった。やっとのことで口を開くと、彼女がドアから姿を現した。彼女は……、ああそうだ、宮園さん。いつものように窓とカーテンを開き、僕に笑い掛けてくる。 「差し入れ、買ってきました。緑茶とほうじ茶、どっちがいいですか?」 「……では、緑茶を」  無理やり笑みを浮かべて、のろのろとペットボトルを受け取る。言われてみれば、喉がカラカラだった。  緑茶を飲もうとして、あれ、と思う。まじまじと、自分の手のひらと、ペットボトルを見比べた。  嘘だろう、と思う。  自分で自分のことが信じられなかった。  ──ペットボトルの開け方が、分からない。  全身から、一気に血の気が引くのが分かる。冷や汗が吹き出し、額を流れ落ちた。 「どうしました?」  彼女に声を掛けられた瞬間、頭と喉がかっと熱くなった。堰を切ったように、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。見られたくなくて、手のひらで顔を乱暴に拭った。その拍子に、膝からペットボトルが転がり落ち、鈍い音を立てた。  ためらいがちに、宮園さんが、僕の肩に手を伸ばす。その手を、思わず振り払った。 「帰ってください」  吐き出した言葉が、がらんとした病室に響く。 「僕といても、楽しくないでしょう」  床にゆっくりと膝をつき、宮園さんが、うつむく僕の顔を見上げる。その丸い瞳の中に、自分の姿が映っているのが見えた。 「ええ。楽しくはないです。……でも、そばにいたいんです」 「なぜ」 「なぜでしょう」  宮園さんが、小さく首をかしげる。その動きにつられて、麦色の髪の毛が、首筋でふわりと揺れた。 「私にも分かりません。でも、そうしたいんです」 「あなたは」  手のひらを、膝の上でぎゅっと握りしめる。  きっと僕は、以前、この人と親密な関係だったのだろう。そうでなければ、こんな自分に、こんなにも優しい眼差しを向けてくれる説明がつかない。  それなのに僕は、この人のことを、まるで思い出せない。そのことが、歯がゆくてたまらなかった。情けなくて、申し訳なくて、たまらなかった。 「あなたは、誰なんですか? あなたは、僕のこと知っているんですか。こうなる前の、僕のことを」  彼女が、顔を伏せる。長い睫毛が、揺れる瞳に、淡い色の影を作る。  しかし、それはほんの僅かな間だった。顔を上げた宮園さんは、いつもと変わらない笑顔を浮かべていた。 「言ったじゃないですか。私とあなたは、ただの友人です。つい最近知り合ったばかりの、ただの友人。そして私は、あなたのそばで読書するのが好きな、ただの物好きなんです」  はぐらかされたのは、一目瞭然だった。でも、彼女が呟いた「友人」という言葉の響きは、僕の記憶の奥の何かを微かに震わせた。  冷えきった手の上に、あたたかい手のひらが重ねられる。そのぬくもりは、少しずつ、さざ波立った心を落ち着かせていった。震えがとまるまで、宮園さんは、僕の手をじっと握ってくれていた。 「混乱させて、ごめんなさい」  聞き取れないほどの小さな声で、彼女はそう呟いた。  落ち着いてみれば、ペットボトルのキャップは、いとも容易く開けることができた。どうしてこんなことができなかったのか、疑問に思うほど呆気なく、冷たい緑茶は、僕の喉を潤してくれた。  僕は、宮園さんのことが、好きなのかもしれない。  本を読む横顔を見ながら、他愛もない話を楽しそうに語る笑顔を見ながら、時々そう思うようになった。  これが、恋愛感情なのかどうかは分からない。ただ、彼女のそばにいると、火が灯ったように、胸があたたかくなる。自然と、優しい気持ちになる。  それなのに、その気持ちを自覚するたびに込み上げてくるのは、言いようのない罪悪感だった。僕は、この人を好きになってはいけない。そんな強迫観念にも似た思いが、背中に重くのしかかってくる。  その理由が分からなくて、僕は夜毎苦しんだ。  思い出さなければならないことが、すぐ目の前にある。なのに、手を伸ばしてもつかめない。どんなにあがいても、思い出せない。悪夢を見て、夜中に目覚めることもしばしばだった。楽譜が読めなくなる夢。声が出なくなり、歌えなくなる夢。宮園さんの顔と名前を、忘れる夢。汗だくで目覚めるたびに、僕は自分の弱さを呪った。  それでも、宮園さんと過ごす時間は、僕にとってかけがえのないものだった。沈黙が怖くないこと。どうでもいいことを、思い付いたままに話せること。それが、こんなにも心地よいことだなんて、知らなかった。  ただ、隣にいてくれるだけで良かった。何も言わなくても、目には見えない透明な糸が、いつでも僕たちを繋いでくれていた。  鍵盤に指を走らせる。僕が奏でる音楽に合わせて、彼女がゆっくりと肩を揺らす。  それだけで、本当に幸せだった。
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