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その日は、朝から調子が悪かった。
身体が鉛のように重く、だるい。自分を奮い立たせて、何とかベッドから起き上がっても、頭の中が濃い霧に包まれているかのようで、思考がまとまらない。朝の定例となっている診察でも、医師が何を言っているのか、早送りのようで上手く聞き取れなかった。
ぼんやりとピアノの前に座っていると、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」という一言を発することすら、億劫だった。やっとのことで口を開くと、彼女がドアから姿を現した。彼女は……、ああそうだ、宮園さん。いつものように窓とカーテンを開き、僕に笑い掛けてくる。
「差し入れ、買ってきました。緑茶とほうじ茶、どっちがいいですか?」
「……では、緑茶を」
無理やり笑みを浮かべて、のろのろとペットボトルを受け取る。言われてみれば、喉がカラカラだった。
緑茶を飲もうとして、あれ、と思う。まじまじと、自分の手のひらと、ペットボトルを見比べた。
嘘だろう、と思う。
自分で自分のことが信じられなかった。
──ペットボトルの開け方が、分からない。
全身から、一気に血の気が引くのが分かる。冷や汗が吹き出し、額を流れ落ちた。
「どうしました?」
彼女に声を掛けられた瞬間、頭と喉がかっと熱くなった。堰を切ったように、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。見られたくなくて、手のひらで顔を乱暴に拭った。その拍子に、膝からペットボトルが転がり落ち、鈍い音を立てた。
ためらいがちに、宮園さんが、僕の肩に手を伸ばす。その手を、思わず振り払った。
「帰ってください」
吐き出した言葉が、がらんとした病室に響く。
「僕といても、楽しくないでしょう」
床にゆっくりと膝をつき、宮園さんが、うつむく僕の顔を見上げる。その丸い瞳の中に、自分の姿が映っているのが見えた。
「ええ。楽しくはないです。……でも、そばにいたいんです」
「なぜ」
「なぜでしょう」
宮園さんが、小さく首をかしげる。その動きにつられて、麦色の髪の毛が、首筋でふわりと揺れた。
「私にも分かりません。でも、そうしたいんです」
「あなたは」
手のひらを、膝の上でぎゅっと握りしめる。
きっと僕は、以前、この人と親密な関係だったのだろう。そうでなければ、こんな自分に、こんなにも優しい眼差しを向けてくれる説明がつかない。
それなのに僕は、この人のことを、まるで思い出せない。そのことが、歯がゆくてたまらなかった。情けなくて、申し訳なくて、たまらなかった。
「あなたは、誰なんですか? あなたは、僕のこと知っているんですか。こうなる前の、僕のことを」
彼女が、顔を伏せる。長い睫毛が、揺れる瞳に、淡い色の影を作る。
しかし、それはほんの僅かな間だった。顔を上げた宮園さんは、いつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
「言ったじゃないですか。私とあなたは、ただの友人です。つい最近知り合ったばかりの、ただの友人。そして私は、あなたのそばで読書するのが好きな、ただの物好きなんです」
はぐらかされたのは、一目瞭然だった。でも、彼女が呟いた「友人」という言葉の響きは、僕の記憶の奥の何かを微かに震わせた。
冷えきった手の上に、あたたかい手のひらが重ねられる。そのぬくもりは、少しずつ、さざ波立った心を落ち着かせていった。震えがとまるまで、宮園さんは、僕の手をじっと握ってくれていた。
「混乱させて、ごめんなさい」
聞き取れないほどの小さな声で、彼女はそう呟いた。
落ち着いてみれば、ペットボトルのキャップは、いとも容易く開けることができた。どうしてこんなことができなかったのか、疑問に思うほど呆気なく、冷たい緑茶は、僕の喉を潤してくれた。
僕は、宮園さんのことが、好きなのかもしれない。
本を読む横顔を見ながら、他愛もない話を楽しそうに語る笑顔を見ながら、時々そう思うようになった。
これが、恋愛感情なのかどうかは分からない。ただ、彼女のそばにいると、火が灯ったように、胸があたたかくなる。自然と、優しい気持ちになる。
それなのに、その気持ちを自覚するたびに込み上げてくるのは、言いようのない罪悪感だった。僕は、この人を好きになってはいけない。そんな強迫観念にも似た思いが、背中に重くのしかかってくる。
その理由が分からなくて、僕は夜毎苦しんだ。
思い出さなければならないことが、すぐ目の前にある。なのに、手を伸ばしてもつかめない。どんなにあがいても、思い出せない。悪夢を見て、夜中に目覚めることもしばしばだった。楽譜が読めなくなる夢。声が出なくなり、歌えなくなる夢。宮園さんの顔と名前を、忘れる夢。汗だくで目覚めるたびに、僕は自分の弱さを呪った。
それでも、宮園さんと過ごす時間は、僕にとってかけがえのないものだった。沈黙が怖くないこと。どうでもいいことを、思い付いたままに話せること。それが、こんなにも心地よいことだなんて、知らなかった。
ただ、隣にいてくれるだけで良かった。何も言わなくても、目には見えない透明な糸が、いつでも僕たちを繋いでくれていた。
鍵盤に指を走らせる。僕が奏でる音楽に合わせて、彼女がゆっくりと肩を揺らす。
それだけで、本当に幸せだった。
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