2.夏が揺れる

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「また、あなたなの?」  廊下から聞こえた声に、顔を上げる。  母の声だった。それに答えているのは、宮園さんの声。  鍵盤から指を離し、振り返る。  高くなったり低くなったりする話し声は、ドア越しには上手く聞き取れなかった。それでも、話題の中心に自分がいることは、火を見るより明らかだった。  出ていくべきか、それとも気配を消すべきか、つかの間迷う。  意を決して立ち上がったその時、 「もう来ないで」  と、母の声が言った。ドア越しでもはっきり聞こえるくらい、ヒステリックな叫び声だった。 「映画のヒロインにでもなったつもりかもしれないけど、あなたにできることは、何もない。分かっているでしょう?」  しばらく、沈黙が流れた。  凍りついたように動けないまま、僕はじっとドアを凝視する。僕がこうなってから、母は取り乱すことが多くなっていた。もともとカッとなりやすい性格ではあったが、最近は度を超えている。少なくとも、こんなに強い言葉で、他人を怒鳴り付けるような人ではなかったはずだ。  それにしても、宮園さんは、僕の記憶回復のために母が呼びつけたのではなかったのか。  宮園さんが、何と答えたのかは分からなかった。やがて、かつん、かつんと足音が遠のいていく。  耳をそばだてていると、ふいにドアをノックする音が聞こえた。急いでピアノの前に座り、「どうぞ」と返事をする。姿を現したのは、宮園さんだった。  彼女は、全くいつも通りだった。涼しい顔をして、必要以上に僕に干渉せず、ソファに腰掛け本を読んでいる。今日読んでいるのは、宮沢賢治の小説らしい。深い青色の表紙のタイトルは、『よだかの星』。子供の頃に読んだことがある気がするが、詳しい内容は思い出せない。  母のことを、謝りたかった。でも、盗み聞きをしたようで、気が引けてしまう。結局何も言えないまま、時間だけが過ぎていった。  ふと、手もとが見えづらくなって、時計を確認すると、夜の7時を過ぎていた。どこかで、ヒグラシが物悲しげに鳴く声が聞こえる。たなびく雲の隙間に、金色の三日月が浮かんでいた。  普段なら夕方には帰っていく宮園さんが、こんな時間まで病室にいてくれたのは、初めてだった。窓の向こうの空の色に、彼女自身も驚いているらしい。慌てて立ち上がり、「そろそろ帰りますね」と病室を出ようとして、ふと立ち止まる。 「そうだった。差し入れのクッキーがあったのを忘れてました」  バッグから茶色い紙袋を取り出す。 「ここのクッキー、美味しいんですよ。夕食の後にでも、良かったらどうぞ」  蓋を開けて、宮園さんがターコイズブルーのお洒落な缶を、テーブルの上に置いてくれる。缶の中にぎっしりと並んだクッキーは、満月のように丸く、こんがりとした黄金色をしていた。 「ありがとうございます」  バターと蜂蜜の香りが、ふわりと鼻を掠めた、その瞬間だった。  身体に、稲妻が走った。  目の前を通りすぎていく景色と、誰かの話し声。それらが、一瞬のまばたきの間に、洪水のように押し寄せる。遠い記憶が、宮園さんの横顔と結びつき、目の前で火花が弾けた。 「……夢花さん?」 「えっ?」  宮園さんが、はっと目を見開く。 「もしかして、夢花さん、ですか?」  僕は、この人を知っている。  そう、泣き出しそうな気持ちで思った、その時だった。  太鼓を打ち鳴らしたような破裂音が、響き渡った。  半分開け放たれた窓の向こう、濃い藍色に染まった夜空に、橙色の眩い光が、ぱっと開き、キラキラ飛び散る。光の残滓が、滝のように、夜空を流れる。  ──花火。  どん、という衝撃が、繰り返し胸を揺らす。その振動が、激しく脈打つ心臓の鼓動と重なり、全身が震えた。  宮園さんは、大きく目を見開いたまま、固まっていた。僕のことを、信じられないものを見るような目で、じっと見つめる。  やがて、彼女が、小さく頷いた。その顔に、ゆっくりと笑みが広がっていく。 「……はい。そうです。夢花です」 「そうか。……あなただったんですね」  そうだった。思い出した。  この人は、僕の大切な人。ずっとそばにいて、支えてくれた、唯一の人。  水筒から立ちのぼる、白い湯気を思い出す。カップを包む手のひらの温かさ。蜂蜜が溶けたダージリンティーの、甘い香り。それらが、確かな手触りとともに、よみがえる。  彼女が、今にも泣き出しそうな顔で微笑む。その背中で、大輪の打ち上げ花火が、夢のように咲き誇り、散っていった。 「思い出してくれて、ありがとう」  そう、彼女は囁いた。  それから僕たちは、ふたり並んで花火を見た。  照明を落とした、薄暗い部屋。三分の一しか開かない窓に映る、ふたつのシルエットの頭上で、夢のように美しい花火が、夜空を彩り、消えていく。目の悪い僕には、色とりどりの眩い光が、水に落ちた絵の具のように、柔らかく滲んで見えた。少しでも目をそらしたら消えてしまいそうな、儚い景色だった。  夢花さんは、無言だった。僕も、言いたいことはたくさんあったけれど、上手く言葉にならなかった。胸がいっぱいで、幸せで、苦しいくらいに満ち足りていた。 「私、ずっと花火が見たかったんです」  ふと、彼女が呟いた。 「やっと見れた」  うるんだ瞳が、僕を見つめる。その瞳の中にも、幻のような光の花が、ちらちらと輝いていた。ふいに、流れ星のような一筋の涙が、頬を伝う。それを慌てた様子で拭ってから、そっと微笑む。  この時間が、永遠に続いて欲しい。  そう、心の底から願う。  ひゅう、という甲高い音とともに、三本の炎の線が、夜空をまっすぐに貫き、特大の花を咲かせる。重なりあって咲いた七色の花火は、パチパチと音を立てながら、涙のように混ざり合い、溶け合った。  最後の光が夜空に消えると、ふっと静寂が満ちた。つんとする煙の残り香が、かすかに漂っている。夜の闇が突然濃くなり、自分の心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえた。 「あの」  言いかけて、はたと口をつぐむ。  夢花さんは、うつむいていた。ガラガラと窓を閉めて、ショルダーバッグに飲みかけのペットボトルをしまう。その横顔が、なぜか泣いているように見えて、僕は戸惑った。  もっと、彼女と一緒にいたかった。でも、その涙の理由が分からなくて、何も言えない。手早く帰り支度をする彼女の姿を、引き止めることもできずに、ただ眺める。  代わりに僕は、病室を出ていく背中に向かって、小さく声を掛けた。 「また明日」 「うん。また明日」  手を振る彼女の顔は、夜闇に紛れて、よく見えなかった。
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