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3.夏が揺れる -reprise-
「はじめまして」
そう言って差し出した手のひらが、小刻みに震えている。
きちんと笑えていますように。この私の弱い気持ちが、手のひらを通して、あなたに伝わりませんように。そう、心の中で必死に祈る。
あなたの乾いた大きな手が、おずおずと、私の手のひらに触れる。それだけで、胸の中が熱くなる。泣き出しそうな気持ちが、喉に込み上げてくる。
偽善者と言われても、仕方がないことなのかもしれない。
こんなことをしたところで、意味なんてない。将来性も、生産性もない。そう言われても、私はただ頷くしかない。あなたのことを心配して言っているの。そんな優しい言葉すら拒絶する私は、あの人の言う通り、確かに、ちょっとおかしいのかもしれない。
それでも、と思う。
私は、ただ、この人の隣にいたかった。意味のないことを、意味のないまま、この人と一緒にしたかった。
たぶんもう、これは恋じゃない。
この気持ちに、名前なんてない。
*
今から七年ほど前、奥山ソラは、新進気鋭のミュージシャンとして、注目を集めていた。
人気に火がついたのは、とある映画の主題歌を担当したことがきっかけだ。『世界がきみを忘れても』は、若者を中心に人気を博し、そのMVは史上最速で一億回再生を記録した。年末の歌番組に出演したことで、幅広い世代からも支持を集め、奥山ソラは瞬く間に国民的ミュージシャンとして名を馳せるようになった。
その事故が起きたのは、そんな人気絶頂の最中の出来事だった。五年前の10月。秋も深まる、うららかな昼下がり。奥山ソラが運転していた乗用車が、東京都港区内のガードレールに衝突した。彼は一時意識不明の重体となり、同乗していた女性は、搬送先の病院で亡くなった。
事故の一報が入るなり、世間は、奥山ソラの話題一色となった。
開催中だった全国ツアーは無期限の延期となり、年内に発売予定だったアルバムも、販売未定となった。ファンの嘆きの声がSNS上を埋めつくし、その誰もが、彼の一日も早い回復を祈った。熱心なファンではなくても、一度でも彼の音楽を聴いたことがある人は皆、無関心ではいられなかった。
亡くなった女性は、『YUMEKA』というペンネームで活動するイラストレーターだった。
同情的だった雰囲気が、緩やかに変わり始めたのは、彼女が奥山ソラの交際相手だったことが、週刊誌やインターネットのまとめサイトで取り上げられ始めた頃だ。
YUMEKAは、精神的な病を患っていた。それが原因で、二人が破局寸前だったという趣旨の文章が、有名な暴露系インフルエンサーによって投稿されると、様々な憶測と批判と同情の声が、SNSに溢れ返った。
YUMEKAは半年ほど前から、SNS上で誹謗中傷の被害に遭っており、精神を病んでいた。その証拠のスクリーンショットが出回り、彼女がそんな状態にもかかわらず、全国ツアーで日本各地を飛び回っていた奥山への非難が相次いだ。
事故現場が、見通しの良い直線道路だったことも、多くの人の想像力を掻き立てた。これは事故ではなく、事件なのではないか。YUMEKAの自殺に、奥山が巻き込まれたのではないか。もしくは、彼女の存在の重さに耐え兼ねた奥山が、意図的に事故を起こし、YUMEKAを殺害したのではないか。そんな無責任な憶測が、まことしやかに囁かれた。
奥山ソラが、そんなことをするはずがない。
彼の口からきちんと説明して欲しい、という声が、ファンの間で次第に高まっていった。彼なら、きちんと説明してくれるはずだ。いつだってファンのことを、何よりも一番に考えてくれる人なのだから、と。
奥山ソラの公式SNSに、短い文章が投稿されたのは、事故から一ヶ月が経過した頃だった。
「奥山ソラは、本日をもって、無期限の活動休止とさせていただきます。事故について、様々な意見や憶測が広がっており、ファンの皆さんにはご心配をお掛けして、申し訳なく思っています。
ですが、どうか僕と彼女のことを、少しの間だけでも放っておいてもらえませんか? 僕は、今回の件について、この先も皆さんに説明するつもりはありません」
この投稿は、結果的に火に油を注ぐこととなった。
奥山ソラは、ファンをないがしろにしている。失望した。こんな、不誠実な人だとは思わなかった。そんな非難の言葉が、火の粉のように飛び交った。
「#奥山ソラは説明する責任がある」
そのタグがトレンド一位となったのは、奥山の投稿からわずか一時間後だった。
批判の矛先は、亡くなったYUMEKAにも向けられた。
YUMEKAが、過去にSNSに投稿していた画像が掘り起こされ、そこに奥山ソラのCDが写り込んでいたことを、彼女の「匂わせ」だと批判する人もいた。YUMEKAは、著名な画家の作品を盗用していたのだから、批判されて当然だと、豪語する者もいた。
「そもそもソラくんに彼女がいたってこと自体ショック」
「歌詞に出てくる『夢の花』って、YUMEKAのこと? 楽曲の私物化やばくない?」
「奥山ソラは、ファンを見捨てた」
バッシングの嵐は、やまなかった。
それでも、奥山ソラは沈黙を貫き通した。あの日以来、彼は決して表舞台に立たなかった。それは、事故から五年が経った今も変わらない。
多くの人は、あの事件を忘れてしまっただろう。私が、そうであったのと同じように。それでも、一度投げられた言葉は、インターネットの海にいつまでも残る。指先を動かすだけで、いとも簡単に、あの頃を再現することができてしまう。
自分に都合の良い『奥山ソラ』像を作り上げて、勝手に期待して、勝手に失望する人たち。
その人たちを、私は、軽蔑していた。自分は、あの人たちとは違うと、信じていた。
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