1.春が終わる

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1.春が終わる

『いろはにほへと ちりぬるを』  読みかけの文庫本の上に、ひらりと、一枚の花びらが落ちる。 『どんなに美しい花も、いつかは必ず散ってしまう。この世は諸行無常、の意』  本を閉じ、見上げると、昨夜の強風でスカスカに散ってしまった桜の木が、私を見下ろしていた。その寒々しい姿を眺めながら、彩羽は、本当にその通りだなと思う。永遠に続くものなんて、ひとつもない。  婚約していた彼氏に、「別れて欲しい」と土下座されたのが、一ヶ月前。あまりに突然の出来事だった。なぜ、と問う私に、「初恋の人と再会したんだ」と彼は言った。小学校の同窓会で、再会した初恋の彼女と、十五年の月日を経て、やっと想いが通じ合ったらしい。 「彩羽のことを、嫌いになったわけじゃないんだ」  ぼろぼろと涙をこぼしながら、彼が言う。  彼の泣き虫なところが、私は好きだった。学生時代、映画好きという共通の趣味で知り合った彼は、同じ映画を観ていても、何てことのないありふれたシーンで涙を流す。そんな彼を、なんて優しい人なんだろう、と思っていた。涙に濡れた横顔を、愛おしいと思っていた。  土下座する彼の後頭部を見下ろしながら、まるで恋愛映画のワンシーンみたいだ、と思う。そしてその物語の中では、きっと私は悪役なのだろう。 「もういいよ」  無理やり笑顔を浮かべると、彼は、心底ほっとしたような顔をした。ああ、私はこの人にとって、邪魔者になってしまったんだな。そう思ったら、心の奥のいちばん脆い部分が、粉々に砕けた気がした。  寿退社だね、と喜んでくれていた職場の同僚に、合わせる顔がなくて、逃げるように仕事を辞めた。  ATMで、振り込まれたばかりの退職金を全額引き出す。そして私は、ひとりぼっちの旅に出ることにした。いわゆる、傷心旅行だ。行き先は、どこでも良かった。とにかく、私のことを誰も知らない場所に行きたかった。  ベンチから立ち上がり、文庫本を小脇に抱えて、ぶらぶらと歩き始める。  ひんやりとした風が心地よかった。今朝、駅のホームに降り立った時に気づいたのだが、この町は、どこにいても、ほのかに海の匂いがする。  駅前の商店街は、店のほとんどにシャッターが下りていていた。潮風で錆び付いた土産物屋の看板や、ご当地キャラクターの顔出し看板。温泉マークが描かれた、色褪せたのぼり。町興しの努力の跡を、見るとはなしに見る。もとは観光地として栄えていたようだが、ひなびた町並みからは、哀愁が漂っていた。  長い坂道を下っていくと、突然、視界がさっと開けた。 「わぁ」  と、思わず声が漏れる。  吸い込まれそうな空と海の、息をのむような、青。遮るものは、何一つない。  こんなに広い空を見たのは、いつぶりだろう。ソフトクリームのような白い雲が、ゆっくりと動いていく。波立つコバルトブルーの水面が光を弾き、キラキラ輝く。  右手を太陽に翳しながら、その景色を眺めていると、どこからか、微かなメロディーが聴こえてきた。断続的なピアノの音色と、誰かの歌声。  吸い寄せられるように、坂道を駆け下りていく。  すると、黒っぽい砂浜の真ん中に、どういうわけか、茶色のアップライトピアノが置いてあるのが目に入った。そこで、立ったまま鍵盤に指を落とし、歌っている人がいる。  さく、さく、と砂を踏みながら、ゆっくりと近づいていく。一歩進むごとに、スニーカーの中がざらつくのを感じた。  調律が狂っているだろう、そのピアノの音色は、調子外れで、軋むようなノイズが混じっていた。遠目では茶色に見えたピアノは、もとは白かったらしく、年季の入った汚れが斑模様に付着している。  歌っているのは、ひょろりと背の高い男性だった。顎が鋭く尖っていて、半袖のTシャツから伸びる首も腕も不自然なくらいに細く、骨張っている。  不健康そうな見た目に反して、その歌声は、力強い響きを持っていた。のびやかで、まるで自由そのものみたいな歌声。私のことなんて、見向きもしない。身体を揺らしながら、楽しそうに、空を見上げて歌っている。  聞き覚えのある曲だった。確か、数年前に流行った有名なラブソングだ、と思い当たる。流行に疎い私でも、サビの部分なら歌うことができる。  ユーチューバーなのだろうか。でも、ピアノの上には、一冊のノートとペンが置かれているだけで、撮影している様子はない。  広い空と海を背景に、ピアノを弾きながら歌うその姿は、まるで一枚の絵画のように美しかった。歌声に合わせて、私もゆっくりと身体を揺らす。懐かしいメロディーを、そっと口ずさむ。  最後の音が、風に混じって消えていくのを待ってから、思わず小さく拍手をする。  すると、その男性は大袈裟なくらいにビクリとした。まるで、驚いた猫のような仕草だった。観客がいたことに、初めて気がついたらしい。探るような目つきで、こちらをうかがう。 「大丈夫ですか?」 「え?」 「涙が」  言われて初めて、指先で頬に触れる。驚いた。彼に別れを告げられた時も、私は、一滴の涙も流さなかったのに。 「潮風のせい……だと思います」 「観光客の方ですか?」  その人は、まだこちらを警戒しているようだった。ひょろりとした体躯を丸めて、ピアノの上のノートを手に取り、開く。何かを確認しているみたいだった。 「ええ。……まぁ」 「何もないところでしょう。でも、そこが良い」 「地元の方なんですか?」 「いえ、僕も観光、といえば観光かな」  曖昧に言葉を濁す。この人も、他人に言いづらい事情があるのかもしれない、と思う。私がそうであるのと同じように。  沈黙が流れた。ざざ、ざざ……という波が寄せては返す音だけが、響いている。  邪魔をしてしまったかな、と思い、「では」と頭を下げて、立ち去ることにする。その人も、あえて私を引き留めようとはしなかった。  宿に戻り、スマートフォンを確認すると、母から届いたメールが溜まっていた。結婚式の日取りは決まったの? というメッセージを見て、スマートフォンの電源を切る。私はまだ、仕事を辞めたことも、彼と別れたことも、母に話せていない。  夕食の海鮮料理は、見た目は豪華だったが、味がしなかった。普段飲まないお酒を無理に流し込むと、気持ち悪さが込み上げてきて、倒れ込むように眠ってしまった。
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