1.春が終わる

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 その二日後、私はもう一度あの海辺に行ってみることにした。宿に引きこもり、ひたすら読書するのにも飽きてしまっていたし、他に行く宛てもなかったからだ。  風の強い日だった。潮風に髪の毛をなぶられながら、転ばないように、ゆっくりと坂道を下っていく。日差しは強いが、風は冷たくて、剥き出しの両腕がひんやりと肌寒い。パーカーを羽織ってくれば良かったかな、と少しだけ後悔する。  やはり、あの人はそこにいた。ピアノを弾きながら、ゆったりと青空を仰ぎ、歌を歌っている。  私の姿を認めると、その人は、一瞬怪訝そうな顔をした。そして、素早い仕草でノートを確認し、「こんにちは」と頷く。 「弾いてみますか」 「あ、それは結構です。ピアノ、弾けないので」  じゃあ何のために来たのだと、心の中で自分に突っ込みを入れながら、愛想笑いを浮かべる。  近くで見ると、その人は、とても病弱そうに見えた。この強風で、ばらばらに吹き飛んでしまいそうなくらい、細くて、頼りない。歌っている姿は、まるで少年のようだったが、実際の年齢は30代後半といったところだろうか。鋭く尖った顎に、うっすらと無精髭が生えている。 「……少しだけ、聴いていてもいいですか?」  思いがけず、すがり付くような声が出て、自分で自分に驚く。ひとりになりたくて、旅に出たはずなのに、私は何を言っているんだろう。  別に良いですよ、とその人が頷く。私がいても、いなくても、関係ないみたいだった。  茜色の太陽が海に溶けて、やがて薄紫色の空にいちばん星が浮かぶまで、休みなく歌い続けるその人の姿を、私はじっと見上げていた。  知っている曲もあれば、知らない曲もあった。砂浜に体育座りをし、両手で自分を抱きしめて、ただひらすらその音楽に身を任せる。強かった風は、いつの間にか凪いでいた。まるで、ここだけが世界の全部から切り離されたかのように、静かで、穏やかな時間だった。  その人がピアノから離れたのは、とっぷりと日が暮れた頃だった。  暗い坂道を、どちらともなく歩き始める。月明かりが、足元に薄い影を作っていた。 「実は、婚約していた彼氏にフラれてしまって」  世間話をするような口調で、気づけば、私は話していた。 「ひとりになりたくて……誰も私を知らない場所に行きたくて、仕事も全部放り出して、この町に来たんです。カッコ悪いですよね」 「それで、この本を?」 「ええ、まぁ」  そういうことになりますね、と呟きながら、本のページをパラパラとめくってみせる。まったく、現実っていうのは、皮肉なくらいによくできている。  『いろは歌とその歴史』。  この本は、半年ほど前に、別れた彼がプレゼントしてくれたものだった。  どうしてこんな渋い本を? と笑う私に、あの人は、本屋で彩羽の名前を見つけたから、と言った。だから、嬉しくて思わず買っちゃったんだよ、と。今思えば、この本は、私たちの未来を暗示していたのかもしれない。 「『色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ』。永遠に続くものなんてない。良いことも、悪いことも、誰かを好きだと思う気持ちも、時とともに移り変わっていく。永遠の愛、なんて、映画やドラマじゃよく言いますけど、そんなのただのお伽噺なんだって……それが当たり前なんだって思ったら、少しだけ気が楽になりました。先人の言葉って、侮れないですね」  よどみなく言葉が口をついて出る。見知らぬ土地の見知らぬ相手だから、話せるのかもしれなかった。 「今は、はやく忘れてしまいたいです。何もかも、全部、なかったことにしてしまいたい」  顔の筋肉が、勝手に笑顔の表情を作る。泣きたい時ほど笑顔になるのは、なぜなのだろう、と思う。たぶん、弱った心を守るための、防衛反応。人体の構造って、不思議だ。 「……そうですか」  その人は、肯定も否定もしなかった。見知らぬ女の失恋話を突然聞かされて、さぞ戸惑っていることだろう。気味が悪いとすら、思われているかもしれない。  駅前の商店街は、閑散としていた。  夜闇の中、コンビニの人工的な明かりだけが眩しい。まるで合成写真のように、店自体が、地面から少しだけ浮かび上がっているように見える。 「ちょっと待っていてください」  その人が突然そう言って、コンビニの中へ消えたと思ったら、すぐに戻ってくる。右手にビニール袋を提げていた。ごそごそと中身を探り、あち、と顔をしかめる。 「半分、どうぞ」  その人が差し出してくれたのは、歪な形にちぎられた、半月形のあんまんだった。  胡麻が練り込まれた黒い餡から、ゆらゆらと細い湯気が立っている。ふわりと、甘ったるい香りが鼻腔をかすめた。その香りを嗅いだ途端、自分が空腹だったことに気づいた。 「冷める前に。あの……良かったら」  自信のなさそうな表情だった。迷惑だったらどうしよう。そんな葛藤が、透けて見える。  言われるがまま、あんまんを受け取る。  ふかふかのあんまんを頬張ると、口の中で、こってりとした熱い餡がとろけていった。その強烈なくらいの甘さを感じながら、私は、ああ、と息を吐く。  あの日以来、はじめて味がした気がした。 「良かった」  私の顔を横目でそっと見て、その人が、ほっとしたように微笑む。目の横に刻まれた笑い皺が、優しさのしるしのように見えた。  それから私は、次の日も、また次の日も、その海辺に出掛けていった。  あの人は、名前を奥山と言うらしい。東京で働いていたが、身体を壊してしまい、たまった有給を消化しながら、この町で療養しているとのことだった。  私も、旅行資金がつきるまで、この町にとどまろうと思っていた。女性のひとり旅ということに、勝手に引け目を感じていたが、世間からしたら、大して珍しくもないのだろう。寂れた町の人々は、私に無関心で、居心地が良かったし、海辺で彼の歌声とピアノの音色に耳を傾ける時間は、ヒリヒリ痛む心の傷を、少しずつ癒してくれるようだった。  奥山さんは、不思議な人だった。  年齢不詳、出自不明。B5サイズの白いノートを片身離さず持ち歩いていて、何かにつけてメモをするのが癖らしい。その時々の表情や仕草で、年寄りのようにも、少年のようにも見える。色白というよりも血の気がなくて、幽霊のような浮世離れした雰囲気を纏っているが、顎にぽつぽつと生えている無精髭が、彼が生身の人間であることを示していた。 「このピアノは、誰が、何のためにここへ運んだのでしょうね」  潮風を浴びて、一日ずつ朽ちていくピアノ。そこから少し離れた砂浜に体育座りをし、読書をするのが私の日課になった。  砂が入るから、スニーカーと靴下は早々に脱いでしまうことにした。浜辺で拾った小さな貝殻を、意味もなく、つま先の周りに並べていく。裸足で、さらさらした砂の感触を確かめていると、子供の頃に戻ったような、こそばゆい気持ちになる。寄せては返す海の音が、子守唄のようで心地よかった。 「僕も気になって町の人に尋ねてみたのですが、なぜか、答えはバラバラでした。町興しのために市長が購入したとか、廃校になった小学校のいわく付きのピアノだとか」  ひとりぶんの距離をあけて、私の隣に座った奥山さんが呟く。別れた彼と違って、奥山さんは基本的に無口だったが、時々こうして私の雑談に付き合ってくれる。 「いつからここにあるのかも、正確には、誰も知らないようでした」 「みんなに忘れ去られて、なぜここにいるのかも分からないなんて、寂しいですね」  自分で言ったくせに、その言葉は私の胸を刺した。  寂しい。  蓋をして、なるべく見ないようにしていた感情が、心の隙間に、見え隠れしている。  ふいに奥山さんが、膝の上に開いていたノートを閉じ、それを小脇に抱えて立ち上がった。 「ピアノは、とても繊細な楽器です。雨ざらしで、潮風を浴びて、こんな状態で何年も放置されて、普通なら、音が出るわけがない」  鍵盤に、人差し指をそっと落とす。優しい音色が響き渡り、青空に吸い込まれていく。 「こんなに錆び付いて、砂だらけになって、それでもこんなに美しい音が鳴る。僕には、このピアノが叫んでいるように聴こえるんです。『忘れないで』と」 「忘れないで……」 「全ては移り変わっていくと、いろはさんは仰っていましたね。永遠に変わらないものは、ひとつもないと」  奥山さんが、ふっと微笑む。 「それでも僕は忘れたくないです」  くぐもったピアノの音色が、海辺に響く。誰かに語り掛けているような音色だった。  いろはさん。  奥山さんが私の名前を呼ぶと、聞き慣れた名前が、優しい響きを纏った別の言葉に変わる気がする。  彩羽、じゃなくて、いろは。  くちびるから、空気を伝って私に届くまでの間に、漢字からひらがなに変換される気がする。  鍵盤を見つめる奥山さんの瞳は、少年のような、純粋な色をしていた。でもその横顔には、どこか寂しさが滲んでいて、その隠しきれない孤独の匂いに、私は引き寄せられているのかもしれなかった。  それはまるで、花の香りに誘われる蝶のように。
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