1.春が終わる

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 その日は、雨が窓を叩く音で目が覚めた。  枕元のスマートフォンを確認すると、時刻はすでに昼の11時を過ぎている。もう一度枕に顔を埋めると、とろとろと眠気が漂ってきて、これはまずい、と思い切って布団をはねのけた。  東京で働いていた頃は、朝の5時には起きて満員電車に揺られていたのに、今やすっかり朝寝坊が板についてしまっている。これは、社会復帰した時に苦労するな。そんなことを考えながら、ゆっくりと身支度を整える。  宿を出る時も、しとしとと雨が降っていた。折り畳み傘のひとつでも、家から持ってくるべきだったと、今更ながら後悔する。コンビニまで走ろうかなと考えていたら、宿の女将さんが、ビニール傘を貸してくれた。ありがたく受け取ると、「気をつけていってらっしゃいね」と、にこやかに頭を下げてくれる。  何弁なのか分からないが、この町の人たちの言葉には、少しだけ訛りがある。その柔らかい響きを、私は素敵だな、と思っていた。この女将さんも、何日も連泊する私に必要以上に構うことなく、でも、いざという時はこうやって声を掛けてくれる。その適度な距離感が、今の私にはありがたかった。  コンビニで買ったあんまんを片手に、いつもの坂道を下っていく。今日は、ピアノの音も、歌声も聴こえない。さすがの奥山さんも、この雨の中、わざわざ歌いに来てはいないのだろう。  この町に来て、二週間。  そのほとんどの時間を、私は海辺で過ごし、そしてそこには、いつでも奥山さんがいた。  時には、地元の定食屋で一緒に焼きそばを食べたり、波打ち際を散歩しながら、他愛もない会話を交わしたりすることもある。でも、一日の長い長い時間の大半を、私たちは、海辺でそれぞれの好きなことをして過ごしていた。  私たちのこの関係を、何と呼べば良いのだろう。友人でも、ましてや恋人でもない。でも、知人と呼ぶにはよそよそしい、同じ時間と空間を共有しているだけの関係。  奥山さんは、いつでもピアノを弾きながら歌を歌い、その音楽をBGMに、私は読書に没頭する。体育座りをして、歌う奥山さんの姿を、ぼんやりと眺めていることもあった。緩やかに移り変わっていく空と海の色だけが、私たちを、ゆったりと包みこんでいた。私たちはひとりだったが、ひとりぼっちではなかった。  海辺へ出て辺りを見渡したが、やはり、奥山さんの姿はなかった。雨に濡れてねずみ色に変色した砂は、いつもよりも泥っぽさを感じる。振り返ると、砂浜には、ここまで歩いてきた自分の足跡が、くっきりと残っていた。  錆び付いたアップライトピアノの蓋に、そっと触れてみる。あんなにいつも近くで見ているのに、触るのは初めてだ。蓋をゆっくりと開くと、ぎぃぃ、とかなり大きな音がした。見た目以上に、老朽化が進んでいるのかもしれない。壊したら大変、と慌てて蓋を閉じる。  その時、ふと、海面に光るものを見た気がした。  目を凝らして見て、あ、まただ、と思う。銀色の魚の鰭のようなものが、キラリとひらめき、海の中へと消えていく。  開いたままのビニール傘を砂浜に放って、海の中へざぶざぶと足を踏み入れる。  胸まで海に浸かると、あまりの冷たさに、心臓が悲鳴を上げた。黒っぽい海水が、シャツに覆われた肌の下、内蔵の中にまで滲みていく感じがする。全身に鳥肌が立ち、あっという間に歯の音が合わなくなる。  じっと目を凝らす。  でも、さっき見つけた魚の姿は、どこにもない。見間違いだったのだろうか。それなら、早く浜辺に戻らなければ。旅先で風邪を引いたら、洒落にならない。  頭では分かっている。それなのに、どういうわけか、身体が動かなかった。  灰色の空を見上げる。  ふいに、ぽたん、と目の中に雨が落ちて、何も見えなくなる。両手をだらりと垂らして、海水に身を委ねると、心地よい脱力感があった。まるで、遠くから自分を見下ろしているかのように、現実感がなかった。  ──このまま、海の底へと沈んでしまいたい。  不意に込み上げてきたその思いは、強烈で、抗いがたいほど甘美だった。  重たい手足を動かして、海水を掻き分け、海辺へと戻ること。濡れた身体を引き摺りながら、坂道を上り、宿へ帰ること。その道のりを考えると、億劫でたまらなかった。  いや、億劫なのはそれだけじゃない、と思う。  私はたぶん、生きていくことに疲れてしまったのだ。  絶望なんて、そんな大袈裟なものではない。ただ、この先も生きていくこと、生きていかなくてはならないことが、面倒くさくてたまらなかった。  私は別に、特別不幸なわけじゃない。むしろ、恵まれている方だと思う。  両親が健在で、関係だって良好で、いざとなれば、いつでも帰れる家がある。酷いいじめに遭ったこともない。重い病気を抱えているわけでもない。婚約者と別れたことは辛い記憶だけれど、だからといって、死ぬほど思い詰めているわけでもないと思う。  それでも、私の心には、いつからか希死念慮が巣食っていた。  そうだ。ひとり旅の目的地に、海の見えるこの町を選んだのは、偶然なんかじゃない。ATMで、振り込まれたばかりの退職金を全額引き出したあの時から、私は、死を意識していたのではないか。海の底へ沈むことを、心の隅では、望んでいたのではないか。  日本人女性の平均寿命は、87歳だと何かで読んだ。少なく見積もっても、私の余命は、残り50年。やりたいこともない。好きな人もいない。そんな私にとって、この50年は、永遠よりも長いだろう。  心臓が、激しく胸を叩く。  耳の奥で、もうひとりの自分が、警鐘を鳴らしている。今すぐ海を出ろ、宿へ戻れと叫んでいる。しかし、その声はあまりに弱々しかった。突然堰を切ったように溢れ出した思いは、自分の意思では、もう止められなかった。  心を覆う柔らかい膜の下に、いつでも、うっすらと死が透けて見えている。触れないように、壊さないようにしてきた、その透明な膜が、海に入った衝撃で破れてしまった。死が、洪水のように心を覆い尽くしてしまった。  一歩、足を前に進める。右足が、何もない場所をさ迷ったその時、身体が大きく傾いた。  右手が、宙を掻く。背中から、海の中へと落ちていく一瞬が、スローモーションのように感じられた。  波をかぶり、しこたま海水を飲み込む。一気に息が詰まった。鼻と肺が燃えるように熱くて、痛い。海面から顔を出し、息をしようとした。でも、上手くいかなかった。  ああ、死ぬんだな。  ぽつりとそう思った瞬間、何かに右手を強く掴まれた。そのまま身体をぎゅっと抱きしめられる。何事か叫んでいる声がした気がしたが、何も聞こえなかったし、何も見えなかった。鉛のように重い身体は言うことをきかず、ただされるがままに、私は海の中を引き摺られていった。  気づけば、私は砂浜に打ち上げられていた。  砂浜に膝をつき、げほげほと海水を吐き出す。口の中が恐ろしいほど塩辛かった。喉と胸が焼けつくように痛い。背中をさする手のひらの温もりを感じながら、涙と鼻水を垂れ流し、私は、息をしようと必死になった。 「大丈夫ですか」  ようやく顔を上げて、簾のようになった髪の毛をかき上げる。  背中をさすってくれていたのは、奥山さんだった。全身ずぶ濡れで、額に張り付いた前髪から、水が滴り落ちている。血の気が失せた顔に、はっきりと恐怖が刻まれていた。  助けてくれたのだ。  口を開く。でも、感謝の言葉を伝えたいのに、声が出ない。身体中の震えがとまらなかった。 「どうして、こんなことを」 「……鰭みたいなものが、見えたから。魚がいるのかな、と思って」  やっとのことで呟き、笑みを浮かべようとする。 「いやー、やばかった。危うく、死ぬところでした」  茶化さずにはいられなかった。  もしも奥山さんが助けてくれなかったら、私は、本当に死ぬところだった。そしてあの瞬間、私はそれを、受け入れようとしていた。その紛れもない事実に、愕然とする。  私は、あの時、死のうとしていた。死んでもいいと、本気で思った。  生理現象とは別の熱い涙が、頬を流れ落ちる。手の甲で、それを何気ない振りをして拭った。 「そんなに魚が見たいんですか?」 「えっ?」  予想外の質問に、目を瞬く。彼の表情は、掴みどころがなかった。怒っているようにも、笑っているようにも、泣いているようにも見える。 「……さぁ。どうでしょう。言われてみれば、見たいのかも」 「それなら、行きましょう。水族館」 「え?」 「行きましょう。今から」 「今からですか?」 「では、温泉であたたまってから。二時間後に、駅で待ち合わせしましょう」  その言葉には、有無を言わさぬ響きがあった。  奥山さんらしからぬその気迫に、呆気に取られた私は、言われるがまま、「分かりました」と頷いていた。
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