1.春が終わる

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 そんな訳で、私は、奥山さんとふたりで水族館へ行くことになった。  湯上がりで湿ったままの髪の毛を撫で付けて、無理やり一本に結ぶ。全身がだるかった。このまま布団に潜り込んで眠ってしまいたかったが、目が覚めた時に、自分が一人きりだと気づくことが恐ろしかった。あり合わせのTシャツとジーパンを身に付けて、待ち合わせ時間より一時間も早く、宿を出る。  奥山さんは、すでに駅のベンチで私を待っていた。なんとなく気まずくて、少し離れた場所から、その姿をしばらく眺める。やがて私に気づいた奥山さんが、立ち上がり、会釈をしてくれた。急いで乾かしたのだろう、彼の後頭部の髪の毛は、変な風に逆立っていた。  その水族館は、電車に30分ほど揺られた先にあった。エントランスには、手書き風の字体で、『ちいさな町の水族館』とある。町立の水族館らしく、こじんまりとした、素朴な外観をしていた。入館料はたったの500円で、こんなに安くて採算が取れているのだろうかと、勝手に心配になる。  水の光に照らされた薄暗い館内には、静謐な空気が満ちていた。  ゆっくりと進む私の歩幅に合わせながら、一人ぶんの距離を置いて、奥山さんが歩く。そこはかとなく漂う生臭さが、鼻をついた。幼い男の子が二人、きゃあきゃあ叫びながら走り回っている。彼らを叱る母親の声が、ぼんやりと響く。  水槽には、それぞれイラスト付きの説明文が添えられていた。それらを見比べながら、青い世界を泳ぐ生き物たちを、じっと観察する。ピンク色のイソギンチャクの間を見え隠れする、鮮やかなクマノミ。シマシマ模様を見せつけながら、口を尖らせて泳ぐハタタテダイ。不機嫌そうな顔をしたミドリガメは、水槽の隅っこで、微動だにせず、一点を見つめている。  なかでも私が心を奪われたのは、『ベニクラゲ』という名前のクラゲだった。  展示室に足を踏み入れた瞬間、思わず息をのむ。  『クラゲゾーン』というその展示室には、真ん中のドーム型の水槽を取り囲むように、幻想的にライトアップされた丸い窓が、ずらりと並んでいた。  長い触手を絡ませ合いながら、ふわふわと漂うクラゲの姿は、美しく、でもどこか奇妙だった。ドレスの裾のような優美な傘を、ぷくり、ぷくりと膨らませては縮み、意外にも速いスピードで、ゆらゆら浮かび上がる。  『海の月』と書いて『クラゲ』とは、よく言ったものだと思う。宇宙船の舷窓から覗き見たような、神秘の世界。小さな丸い宇宙を、気儘に遊泳するクラゲたちは、まさに海の月だった。  ひとつひとつの水槽を、私は、気が済むまでじっくりと見つめた。クラゲゾーンは、子供たちにはあまり人気がないのか、ほとんど貸切状態だったから、私は気に入った水槽の前を陣取り、心ゆくまで観察することができた。  その時、ふと目にとまったのが、『ベニクラゲ』だった。  ひときわ小さな水槽の中に、目を凝らさなければ見えないほど小さなクラゲが、ぷかぷかと浮かんでいる。透明な傘の中に、赤い心臓のようなものが透けて見えているが、説明書きによると、心臓ではなく胃らしい。そもそも、クラゲには心臓も脳も存在しないのだと知って、驚く。 『不老不死のクラゲ』  説明書きには、そうも記されていた。  一般的にクラゲの寿命は一年程度だが、このベニクラゲは、死期が近づくと『ポリプ』と呼ばれるクラゲになる前の状態へと若返ることができるのだという。つまり、補食されない限り、若返りを繰り返すことで、永遠に生き続けることができるのだ。そのメカニズムは、いまだ解明されておらず、その仕組みが明らかになれば、人間への応用も夢ではないのだという。  永遠の命。そう、口の中で呟いてみる。  クラゲには、脳がない。脳がないなら、きっと、心もないのだろう。それでも、死から逃れ、永遠に生き続けようとする。それはきっと、生存本能が働くからなのだろう。どんな手段を使ってでも、生き延びようとする、生まれついた本能。遥か遠い未来では、人間も、不老不死の秘薬を手に入れて、ベニクラゲのように進化していくのかもしれない。  いつまでもクラゲの前から動かない私に、奥山さんは何も言わなかった。いつもの白いノートを開き、鉛筆で何か書き込んでいる。しゃ、しゃ、という小気味良い音からして、スケッチをしているのかもしれない。その横顔をチラリと盗み見て、つくづく変わった人だなぁ、と思う。  この人は、一体どういうつもりでここへ私を連れてきたのだろう。  シチュエーション的にはデートみたいだけれど、ついさっき自殺しようとした人間と、それを救った人の間に、そんな浮わついたムードなんて存在するはずもない。それに彼は、ここに来るまでの間、ほとんど口をきかなかった。怒っているのかな、と思ったけれど、いつも通りの穏やかな表情からは、彼が何を考えているのか、私のことをどう思っているのか、推し量ることさえできなかった。  そういえば、水族館に来たのは、別れた彼と品川にある大きな水族館へ行ったのが最後だった。  あの人は、奥山さんと違って、よく喋る人だった。喜怒哀楽がはっきりしていて、思ったことを、躊躇いなく、何でも伝えてくれる。水族館へ行った時も、イルカショーを見て、私よりも興奮して手を叩き、赤ちゃんアザラシを見て、可愛い可愛いと顔をほころばせていた。身体はがっしりしてるのに、表情や仕草は、まるで子供みたいな人だった。  ベニクラゲを見たら、あの人だったら何と言っただろう。調子の良いところがあるから、不老不死になって、彩羽と一緒に永遠に生きていたいね、なんて言ったかもしれない。そう思ってしまった後で、苦笑する。あの人は今頃、その言葉を、私じゃない別の誰かに伝えていることだろう。  やっとベニクラゲから目を離す。  『クラゲゾーン』を出ると、ひときわ大きな水槽の前に、人だかりができていた。この水族館の、シンボル的な存在なのだろう。天井まで届く大きな水槽には、無数の魚たちが、流星のように行き交っていた。銀色の鰯の群れが、ぐるぐると旋回している様は、まるでハリケーンのようだ。水槽の眩しい緑色の光の前では、うごめく人の姿は、まるで一枚の影絵のように見えた。  ガラスに手のひらをあてると、名前の分からない魚が数匹、わらわらと集まってきた。目をキョロキョロさせながら、しきりにパクパクと口を動かしている。その姿が可愛くて、嬉しくなって隣を見ると、奥山さんも、静かに笑みを浮かべていた。  奥山さんが、何を考えているのかは分からない。  でも、沈黙は、どんな言葉を尽くすよりも雄弁に彼の優しさを伝えてくれている気がした。そのことに気づいて、ああ、だから私はこの人といると沈黙が恐くないのだ、と思う。  ただ黙って側にいてくれること。そのことが、心の底からありがたかった。死んではいけないとか、生きていれば良いことがあるとか、そういう説教じみた優しい言葉を掛けられたら、私はすぐに回れ右をして、宿に帰ってしまっていたことだろう。  一通り館内を回り終えてから、お土産コーナーを覗き、クラゲのキーホルダーを買った。 「お揃いで買いましょう」  と、クラゲを奥山さんの手に押しつけて、会計を済ませる。私はピンク、奥山さんはブルーのクラゲ。ぷにぷにした柔らかい素材でできたキーホルダーは、淡く透き通っていて、とても綺麗だ。  帰る前に、水族館に併設されたレストランで、夕食を取ることにした。  運ばれてきたシラス丼を見て、あ、と思わず声が出る。  シラスと言えば、イワシの稚魚だ。  さっきまで、水槽の中を悠々と泳いでいた、ハリケーンのような魚の群れを思い浮かべて、少しだけ胸がざわつく。同じことを考えているのだろう、目が合うと、奥山さんも苦笑いを浮かべた。  残酷だな、と思いながら食べるイワシの赤ちゃんは、甘くて、ほろ苦くて、とても美味しかった。  シラスと白米を口いっぱいに頬張りながら、呆れるくらいに単純だけど、生きていて良かったな、と思った。
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