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枯れた桜の木に新緑が芽吹き始め、初夏の気配が感じられる頃には、私の旅行資金も、すっかり底をついていた。
この町に来て、早一ヶ月。いい加減、東京に帰らなければならない。
そろそろ新しい仕事を見つけなければならないし、母から毎日のように届くメールをはぐらかし続けるのにも、限界がある。この町での生活は、まるで夢の中にいるように心地よかったけれど、この辺りで現実に戻らないと、二度と帰れなくなる気がした。
明日、東京へ帰ろう。
そう決めて、気持ちが揺らぐ前にと、その場で新幹線のチケットを予約する。宿の人にその旨を告げ、荷物をまとめていると、リュックの底に硬い感触があった。婚約指輪だ、と気づいて、苦笑する。しばらく悩んでから、パーカーのポケットに滑り込ませた。
宿を出ると、珍しくキャリーバッグを引いた観光客の姿を見掛けた。どうやら、今夜この近くで花火が上がるらしい。有名なインフルエンサーが「インスタ映え間違いなしの穴場スポット」として取り上げたことで、季節外れの花火を見ようと、他県からわざわざ足を運ぶ人も少なくないそうだ。それに、考えてみれば、世間は今日からゴールデンウィークだ。何年かぶりの10連休らしく、今朝のニュースでも、大々的に取り上げられていたことを思い出す。
最後に、奥山さんとふたりで花火を見て、旅を終えるのも悪くないな。そう思いながら、いつものように海辺へ向かう坂道を下る。私が東京へ帰ることを伝えたら、あの人は寂しがってくれるだろうか。そんなことをチラリと思い、慌ててその考えを打ち消す。
しかし、いつものアップライトピアノの前に、彼の姿はなかった。
別に、会う約束をしているわけではない。でも、ここへ来れば、奥山さんに会えることが当たり前になっていたから、私は不安になった。あの人がどこから来て、どこへ帰っているのか、私は知らない。
その時、ふと顔をあげると、50メートルほど先の波打ち際に、しゃがんでいる人の姿が目に入った。あ、と思う。あの背格好は、奥山さんだ。あんなところで、何をしているのだろう。
近くへ駆け寄って、私はようやく異変に気づいた。
奥山さんは、両手で頭をかかえていた。亡羊とした目が、宙を泳いでいる。Tシャツから伸びる剥き出しの白い腕に、びっしりと鳥肌が立っていた。
「奥山さん?」
恐る恐る声をかけると、奥山さんは、のろのろと顔をあげた。私の顔を、まじまじと見つめる。怯えたような眼差しだった。
そして一言、
「ノート」
と、かすれた声で呟いた。
急いで辺りを見渡す。しかし、彼がいつも持ち歩いているあの白いノートは、見当たらない。
「ここは、どこ、ですか」
奥山さんは、ひどく混乱しているようだった。すがりつくように、私のブラウスの袖をつかむ。強い力だった。その手のあまりの冷たさに、ぎょっとする。
「あなたは……」
「彩羽です」
「いろは、さん……?」
焦点が合っていない目に、小さな光が灯る。
「ちょっと待って。今、救急車を呼びます」
ポケットからスマートフォンを取り出そうとすると、待ってください、と奥山さんが呟いた。
「お願いします。呼ばないでください」
「だけど」
「少しだけ、側にいてください」
その表情は、あまりにも切実だった。
本来なら、それでも救急車を呼ぶのが正しい行動なのだろう。でも、その表情に気圧されて、私は頷いていた。
奥山さんのスニーカーとジーンズは、海水に濡れて変色していた。右腕を両手で支えながら、波打ち際からできるだけ離れ、砂浜にゆっくりと腰を下ろす。
彼の身体は、傍から見ても分かるくらいに震えていた。何かを必死に堪えるように、じっと目を閉じている。まるで、嵐が通りすぎるのを待っているかのように。
青ざめた横顔を見つめながら、この人は、と思う。
一体、何を抱えているのだろう。
仕事を休職して、療養中だと言っていたが、何か重い病を患っているのだろうか。
私はこの人のことを、知っているようで、全く知らないのだ。そのことを、改めて思い知らされる。私は奥山さんの、下の名前すら知らない。私が自分の事情を話しても、奥山さんは、自分のことをほとんど喋らなかった。長い長い時間をともに過ごしていても、私たちは他人のままだった。
ノートは、少し離れた場所の砂の中に埋もれかけていた。砂を払って手渡すと、奥山さんは泣き出しそうに顔を歪めた。素早い仕草で、次々にページをめくる。必死に何かを探しているようだった。やがて、全身の力が抜けたように、ほっと息をつく。
「驚かせて、すみません」
「本当に、体調は大丈夫なんですか」
「はい。だいぶ、落ち着きました」
その時、綺麗だね、という歓声が聞こえた。見れば、一組の若い男女が、波打ち際をぶらぶら歩きながら、こちらへ向かってくる。観光客のようだった。
すれ違いざま、男性が奥山さんのことを見て、おや、と首をかしげた。何事か隣の女性に囁き、ふたり揃ってこちらをチラチラ振り返る。訝しげな目つきだった。それを見て、私は咄嗟に「あっちへ行きましょう」と奥山さんを促した。
奥山さんの足取りは、少しふらついていたが、思ったよりもしっかりしていた。ゆっくりと地面を踏みしめながら、坂道を上りきる。彼の横顔は、いつも以上に血の気が引いていた。どこか、人目につかない落ち着いた場所で、はやく彼を休ませたかった。
しかし、駅前の商店街は、賑やかな観光客で溢れ返っていた。一年に一度の、書き入れ時なのかもしれない。昨日までシャッターが下りていた店にも、温泉まんじゅうや干物といった土産の品が、所狭しと並んでいる。中央広場には、りんご飴やチョコバナナのイラストが描かれた、即席の屋台が立ち並び、夕方からの花火大会に向けて、準備の真っ最中のようだった。
まるで、知らない場所に放り出されたかのようだった。
どうしよう、と立ち尽くしていると、土産の品を物色していた学生グループの一人が、こちらを見て「あ」と呟いた。つられて、何人もの視線が一斉にこちらへ注がれる。
いつの間にか、私たちは好奇の目をした集団の輪の中心にいた。こちらに向けて、スマートフォンを掲げている人すらいて、ぞっとする。
「やめてください」
訳が分からないまま、声を張り上げる。
彼らの視線は、はっきりと奥山さんに向けられていた。パシャリ、というシャッター音が聴こえて、愕然とする。撮らないで、という叫び声は、喉に引っ掛かって、上手く声にならなかった。
「こっちです」
ふいに、私の手を、ひんやりとした手のひらが包み込んだ。気づけば、奥山さんに手を引かれて、私は走り出していた。
人混みを縫いながら、彼の背中だけを見つめて、ひたすら走る。さっきの人たちが追いかけてくるのではないかと思うと、恐ろしくて、振り返ることはできなかった。繋いだ手に力が込められるのを感じて、私も、そっと握り返す。骨張った、大きな手のひらだった。
どこを走っているのかも分からないまま、いくつもの曲がり角を曲がり、商店街の路地裏を抜けると、だだっ広い畑と空き地に出た。突然現れた私たちに驚いたのだろう、土くれをつついていたカラスたちが一斉に飛び立っていく。
奥山さんは、肩で息をしていた。しばらくして、手を繋いだままであることに気づく。顔を見合わせて、急いで手を離した。
「巻き込んで、すみません」
もて余したように、ぶらぶらと手を振りながら、奥山さんが呟く。
「しばらくしたら、別々に帰りましょう。僕と一緒にいるところを見られると、あらぬ疑いを掛けられるかもしれませんから」
「どういうことですか」
奥山さんは、ひどく悲しげな顔をしていた。その表情に、諦観の色が滲んでいるのを見て、ざらりとした不安が胸に広がる。
「どうして、奥山さんがあんな目に遭わなきゃならないんですか。あんな……」
人を人として見ていないような、あの視線を思い出すと、肌が粟立つ。奥山さんに向けてスマートフォンを向ける彼らの顔は、水族館で物珍しい生き物を見つけた時のような、興奮に満ちていた。
「いろはさんは、『奥山ソラ』というミュージシャンを知っていますか」
質問の意図を計りかねながら、知っています、と小さく頷く。何年か前に、若者を中心に一世を風靡したミュージシャンだ。恐らく、今の二十代で彼の名前を知らない人はいないだろう。私もまた、その例外ではない。特別熱心なファンというわけではないが、私の好きな映画の主題歌を歌っていたこともあるし、確か、年末の音楽番組に出演していたこともあるはずだ。
その時、頭の中に浮かんだ面影が、ふいに目の前の奥山さんの顔と重なり、思わず息をのんだ。
「もしかして」
「ええ。僕のことです」
信じられない思いで、奥山さんを見つめる。
そういえば、奥山さんは、海辺で『奥山ソラ』の曲をよく歌っていた。初めて会った日も、彼が歌っていたのは『奥山ソラ』の代表的なラブソングだったことを、思い出す。
だけど、『奥山ソラ』は、確か……。
「『奥山ソラ』が無期限の活動休止を発表してから、五年の月日が流れました。その原因となった出来事を、いろはさんも、恐らくご存知ですよね」
そう言う彼の顔は、ひどく年を取って見えた。
かつて、液晶画面の向こう側で歌っていた、華やかな姿からはかけ離れた、くたびれた姿だった。
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