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畑道をまっすぐに歩いていった先に、古びたバス停があった。
色褪せた時刻表に、目を凝らす。バスは、一日に三回しか運行していないらしく、そのことにひとまず安堵する。辺りを見渡しても、ぽつりぽつりと民家が建っているばかりで、人通りはない。ここなら、観光客の目に留まることも少ないはずだ。
バス停の屋根の下のベンチに奥山さんを座らせると、私は大急ぎで駅前へと戻り、コンビニでペットボトルとおにぎりを買って帰ってきた。本当はあんまんを買いたかったのだが、取り扱い期間が終了してしまったらしく、販売していなかった。
見上げれば、さっきまで青空が広がっていたのに、いつの間にか灰色の雲が浮かんでいる。雨が降る前特有の、じめっとした匂いが漂っていた。今にも、ひと雨来そうな雰囲気だ。今夜の花火大会は、もしかすると、中止かもしれない。
ベンチに奥山さんと並んで座り、冷たいおにぎりを食べた。さっきまでの出来事が嘘のように、静かだった。やがて、ぽつん、と雨粒が地面を濡らしたと思うと、滝のような雨が降り出した。
ざあざあと降りしきる雨は、風に吹かれて、まるで霧のカーテンのように揺れて見えた。バス停の屋根を叩く、硬い雨の音を聴きながら、私はそっと奥山さんの横顔をうかがう。その疲れた顔は、ミュージシャンの『奥山ソラ』とは、やはりうまく結びつかなかった。テレビの向こうで歌う彼は、もっと自信に満ちた、眩しい姿をしていたはずだ。
ふと、奥山さんの口の横に、米粒がついていることに気づいた。自分の口元に人差し指を当てて「ここ」と呟くと、奥山さんは、眉毛をハの字にして照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、心臓がどくん、と脈打つ。ああ、私は、この人の笑顔にめっぽう弱い。
好きになってしまったんだな、と思う。
一度言葉にしてしまうと、もう駄目だった。気づかないように、触れないようにしてきた気持ちが、胸の底からわき上がって、喉を熱くする。諦めに似た、それでいて清々しいような、不思議な気分だった。
でも、と思う。
この気持ちに、蓋をしなくてはならない。そう、強く思う。
この人に、私の気持ちを、悟られてはいけない。
「私、奥山さんのことを知りたいです」
奥山さんが口を開く前に、私は呟いた。
『奥山ソラ』が、活動休止を発表した理由。それは、数年前の交通事故がきっかけだったと記憶している。彼が運転していた乗用車が、ガードレールに衝突した事故。当時のSNSのトレンドは、『奥山ソラ』の話題一色だったし、テレビをつければ、そのニュースは、嫌でも目に入った。メディアはその悲痛なニュースを、連日にわたって報道していた。
「でも、それは奥山さんが有名なミュージシャンだから、というわけじゃなくて。正直、奥山さんが『奥山ソラ』だなんて、まだ信じられないんです。私にとって奥山さんは、奥山さんでしかないというか。……上手く言えないんですけど」
強張った彼の横顔を、ちらりと見る。
たぶん、奥山さんは、引け目を感じている。
私に、自分が『奥山ソラ』であることを黙っていたこと。それによって、私をこんな事態に巻き込んでしまったことを、悔やんでいる。
「奥山さんは、私の打ち明け話を、文句も言わず聞いてくれました。それに私は救われたし、感謝しています。……でも、心の中にしまっておきたいことも、あると思うんです。誰かに話を聞いてもらうことで、気持ちが楽になることもあるけれど、心の柔らかい部分を他人にさらけ出すことは、とても辛いことだから」
言いながら、だから私はあの人と別れたことを母に話せなかったのだな、と思う。
母をがっかりさせたくないとか、心配を掛けたくないとか、そういう気持ちも、もちろんある。でも私は、婚約者に別れを告げられたという現実を、言葉にすることすら辛かった。深い傷を庇いながら、遠い場所へと逃げ出すことでしか、自分を守れなかった。
「だから、巻き込んでしまった負い目とか、罪悪感とか、そういうの、感じる必要は全然ないんですからね。言いたくないことは言わなくて良いし、そのことを不誠実だなんて、思いません」
何もかも言葉にして、感情を共有することが、必ずしも正しいわけじゃない、と思う。自分にしか分からない痛みが誰にでもあって、それとどう向き合うのかは、その人次第なのだから。
「私、奥山さんを困らせたくないんです。たった一ヶ月だけど……奥山さんは、海辺で同じ時間を過ごしてくれた、大切な友人、ですから」
友人、という言葉に少しだけ力を込めてそう言うと、奥山さんはふっと目を細めた。
「いろはさんは、優しいですね」
「そんな。普通です」
「普通にその言葉が出てくるところが、その証です」
それは、あなたの方だ、と思う。あなたが優しいから、隣にいる私も、自然と優しくなれるのだ。優しくありたいと、思うのだ。
しかし、奥山さんの表情は沈んでいた。顎に手を当てて、どこか遠い目をして呟く。
「僕は、他人を傷つけるのが怖いんです。だから、言いたいことも、言うべきことも、何でもかんでも飲み込んで、黙り込んでしまう。それを優しさとは言えません。臆病なだけです」
その言葉は、思いがけずこぼれ出た本音のようだった。
「僕は、他人の目ばかり気にして逃げ回っているだけの、情けない人間なんです」
「それは……」
五年前の、あの事故が原因なのか。
それとも、ミュージシャンとして世間の目に晒されてきた経験が、そうさせたのだろうか。
何も言えずにいると、「困らせるようなことを言ってすみません」と奥山さんが小さく頭を下げた。
「東京に帰られるんですか」
「どうして分かったんですか?」
「なんとなくです」
驚く私に、「ひとつだけ、お願いがあります」と彼は言った。
「東京に帰っても、変わらず、僕の友人でいてくれませんか」
「もちろんです。私、奥山さんのこと、絶対に忘れたりしません」
「良かった」
ありがとうございます、と奥山さんが微笑む。
その柔らかな笑顔を見つめながら、私は、そっと決意する。
五年前の、交通事故。
そのニュースを、メディアがこぞって報道したのには、もうひとつの理由がある。
事故の際、『奥山ソラ』は一命を取り留めたが、彼の車に同乗していた女性がひとり、亡くなった。その女性が、世間では公表されていなかった、彼の交際相手だったのだ。
「奥山さんこそ、私のこと、忘れないでくださいよ」
茶化すように言いながら、私は手のひらをぎゅっと握りしめる。
もしもこの先、どんなにこの人のことを好きになったとしても、その気持ちは、自分の胸の中だけに秘めておこう。
そう、心の中で誓った。
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