1.春が終わる

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 結局、雨は夕方になっても止むことはなく、傘のない私たちは、雨足が弱くなったタイミングを見計らって、それぞれの宿へと帰ることにした。  遠慮する奥山さんに、無理やり自分のパーカーを押しつけて、フードを被らせる。少しでも、観光客の好奇の目をごまかすためだ。背の高い奥山さんに、女性もののパーカーは、全然サイズが合っていなくて、思わず笑ってしまう。大きな体躯を丸めて、困ったように、彼も笑っていた。  翌朝、キャリーバッグを引いて宿を出ると、抜けるような青空が広がっていた。昨夜開催するはずだった花火大会は、今日の夜へと延期になったらしい。 「花火、見られなくて残念でしたね」  と、旅館の女将さんは、心から気の毒そうに言ってくれた。またいらしてくださいね、という言葉に、素直に頷く。私はすっかり、この海辺の町を好きになっていた。一度は溺れて死にかけたのに、海を嫌いにならずに済むなんて、案外私は、図々しい性格をしているのかもしれない。  駅へ出る前に、海辺へと続く坂道の前に立ってみる。この一ヶ月間、毎日のように歩いた道だ。初めてこの場所に立った時、風にのって聴こえてきた微かなメロディーは、そういえば、『奥山ソラ』の代表曲だったと思い当たる。 「世界がきみを忘れても、僕はきみを覚えているよ」  口の中で、その曲の歌詞を、小さく口ずさむ。初めて奥山さんに出会ったあの日のことが、ずいぶん昔のことのように感じられた。  じっと耳をすましてみる。でも、彼の歌声も、ピアノの音色も、何も聴こえなかった。観光客とかち合うのを警戒して、今日は、来ていないのかもしれない。  そうであって欲しい、と強く思う。無責任な好奇心に晒されて、彼が傷つくところを、もう二度と見たくない。  朝日が射し込む、飴色の電車に乗る。  窓から身を乗り出し、目を凝らして、あの海辺を見つけようとしたけれど、町の景色は瞬く間に遠ざかり、小さくなっていった。感傷に浸る暇もないほど、あっという間だった。  あれ、と思ったのは、新幹線に乗り換えて、しばらく経った頃だった。パーカーのポケットに入れたはずの婚約指輪が、ない。  慌てて、リュックの中を探る。でも、どんなに探しても、どこにもない。  いつ落としたのだろう。  リュックの中身を引っくり返している私を、隣の席のサラリーマンが、迷惑そうに見ているのに気づいて、手を止める。床に落下して、通路を転がっていく口紅を、急いで拾い上げた。  胸をジリジリと焦がす焦燥感が、少しずつ落ち着いていくにつれて、ああ、私はまだあの人のことを忘れられていないのだな、と思った。  それは、あまりにも苦い想いだった。  包帯を巻きつけて、見えないように隠していた傷跡。それが今もなお、瘡蓋になることなく、じくじくと血を流し続けていたことを思い知る。  リュックを抱きしめて、ぎゅっと目を閉じる。そうすると、心の奥に蓋をしていた思い出が、止めようもなく溢れ出した。  彼のアパートで、一緒に、たくさんの映画を観た。  一人掛けのソファに、ふざけながらくっついて座り、照明を落とす。ごちゃごちゃした狭くて暗い部屋の中、テレビの照明だけが眩しくて、その光に照らされた彼の横顔を、私はこっそり見つめていた。映画の内容なんてどうでも良いくらい、彼と一緒にいられることが幸せだった。  私の誕生日に、背伸びして選んでくれた、ホテルのレストラン。プロポーズしてくれた時の、少し震えた声と、ぎこちない笑顔を思い出す。手汗にまみれた熱い手のひらと、薬指に触れた冷たい指輪の感触。まっすぐに、何度も何度も、好きだと伝えてくれた、あの言葉。  私は、あの人のことが好きだった。  結婚したいと、この先の人生を、ともに生きていきたいと、本気で思っていた。浮気されて、裏切られても、その気持ちだけは事実だった。だからあの時、誓ったのだ。もう二度と、誰かを好きになんてならない、と。  ゆっくりと顔を上げる。  リュックから取り出した『いろは歌とその歴史』の本は、ハンカチで何度も払ったはずなのに、砂をかぶってざらざらしていた。指先を擦り合わせながらページをめくると、ほのかに海の匂いが漂ってくる気がした。  いちばん初めのページに挟んだ、コンビニのレシート。その裏面の走り書きの文字を、人差し指でなぞる。奥山さんの東京の住所と、電話番号が、そこに綴られていた。  『いろはにほへと、ちりぬるを』。  どんなに美しい花も、いつかは散ってしまう。永遠に続くものなんて、ひとつもない。命も、記憶も、誰かを愛おしく想う心も、時の流れには抗えない。すべては移り変わり、跡形もなく消え去っていく。  それなのに、と思う。  耳の奥で鳴りやまない、ピアノの音色。青空に吸い込まれていく優しい歌声と、子守唄のような波の音。ひらがなで、私の名前を呼ぶ、柔らかい声。  それなのに、私はまた、好きになってしまった。  もうやめようと決めたのに、その方が傷つかないと分かっているのに、懲りもせず、どうしようもなく、恋に落ちてしまった。  テレビの向こうで歌う、ミュージシャンの『奥山ソラ』じゃない。  私にもう一度、誰かを好きになる勇気をくれた人は、不器用な仕草であんまんを差し出してくれた、奥山さんだった。
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