シンデレラは眠れない

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 奇跡的に大ヒットしたデビュー作が完結してしばらく経ち、久しぶりにまた連載が始まった。しかし、このタイミングで担当編集さんが育休に入ったので、今日は新しい担当さんとの顔合わせの日だ。  鐘城(かねしろ)(まもる)、本名・佐藤里桜(りお)。青春時代を少年漫画に捧げた結果、現在業界最大手の少年漫画雑誌の新人賞をとってデビュー。前作『竜とガラスの鍵』はアニメ化もした。しかし、まだ私の夢は叶っていない。  多くの人と関わる機会が増えたが、生まれついての人見知りは一向に治らない。毎回緊張する。大きな出版社ということもあり、案内された部屋にたどりつくまでに何人もの人と会釈をかわすが、そのたびに少し心臓の鼓動が早くなる。  担当さんが変わるのも久々だ。すうっと深呼吸をして部屋に入る。 「西崎恭一と申します。ずっと鐘城先生の大ファンで、一緒にお仕事がしたいと編集長に頼み込んだ甲斐がありました。どうぞよろしくお願いいたします」  部屋に入るなり、彼に握手を求められた。背が高く男らしくて、垢抜けていて、堂々としている。私と同じ二十七歳の若さで凄腕編集者として評判らしいときいている。少しだけ『竜とガラスの鍵』の主人公のレオトに雰囲気が似ていた。  目標のことだけを考えて、恋に現を抜かしている暇すらなかった。そんな私ですら本能的にカッコいい人だと思った。彼が声を発した途端、二人しかいない会議室に色が溢れたかのように感じた。 「初めまして。鐘城護です。光栄です。よろしくお願いいたします。私が女って意外じゃありませんでした?」  令和の時代だというのに、世間のジェンダーバイアスは未だに根強い。女が少年漫画を描くことをよく思わない人も少なくないので、男らしいペンネームを使っている。 「いいえ、全く」  彼は微笑みながら即答した。ちらりと見えた整った歯並びから、持ち物の一つ一つにいたるまで手入れが行き届いていて完璧な人と言う印象を受けた。  今日は挨拶だけということだが、ここまできちっとした人が相手だと緊張してしまう。私はしっかりした人間ではない。学生時代は忘れ物や遅刻の常習犯だった。  それでも、人と違う道を生きるためには普通以上にしっかりしないといけない。両親の反対を押し切って上京して漫画家になり、一人で生きていくのは想像以上に大変なことだった。  クリエイターとして、一社会人として自立すること。男社会で女が勝ちあがることは莫大なエネルギーが必要で、ロクに眠る間もない。週刊連載の多忙さは睡眠不足に拍車をかけた。化粧で隠してはいるが、今日も目の下のクマがひどい。 「先生はどうして漫画家になろうと思ったんですか?」  一通りネームの打ち合わせが終わった後、よく通る声で私に尋ねた。すごい目力で見つめられる。  月並みな感想だが、オーラが違う。自信に満ち溢れている。つけている時計も、手帳もブランドものだ。しかし、彼の持ち物の中で、シャープペンシルだけが浮いていた。透明でラメの入った、まるでキラキラしたガラスや水晶が好きだけれども本物は使えない女子小学生が使うような安物のシャープペンシルだった。  シャープペンシルから、西崎さんの真剣なまなざしへと視線を移して応える。 「友達が、私の漫画を面白いって言ってくれたんです」  この話は、誰にもしたことがなかった。メディアのインタビューでも言っていないし、前の担当さんも、その前の担当さんも知らない。ネームの打ち合わせに追われて、そういう込み入った話をする時間がなかったからだ。この機会に少し、思い出話をしようか。 「忘れ物を届けてくれたんですよ。恥ずかしながら、授業中にこっそり自由帳に漫画を描いていまして、それを理科室に忘れてしまったんです」  昔の私の生活習慣は褒められたものではなかった。忘れ物の常習犯だったうえに、授業を真面目に聞かずに漫画を描いたり、漫画を読みふけって夜更かししたりしていた。そんな調子だから、両親が共働きで忙しいというのに体調を崩してばかりだった。両親が私の一人暮らしに反対したのは私がだらしなかったことが理由だろう。 ――面白かったよ。すっごく面白かった。  私の人生を大きく変えたその子の声がよみがえる。下の名前は憶えていない。名字で呼んでいた。彼、中馬(ちゅうま)は背が低くておとなしい子だった。 ◇  それは小学三年生の秋のことだった。昼休み、仲のいい女友達と校庭に行こうとしていたところを中馬に呼び止められた。 「これ、佐藤さんのだよね。理科室に忘れてたよ」  小さな声だった。中馬はクラスの悪ガキに出っ歯をからかわれてから、口元を手で隠してうつむきがちにしゃべる癖があった。天然パーマをからかわれたときは帽子を授業が始まるギリギリの時間までとらなかった。誰にでも嫌なことを言うような悪い奴の言うことなんて放っておけばいいのにと思っていた。実際、私も友達も「子」がつく名前じゃないのに「地味子」とあだ名をつけられたけど無視していた。 「里桜、ドジすぎ。今月何回目よ」 「うっさいなー。しまってくるから先行っててよ」  からかう友達をさっさと場所取りに追い払った。てっきり理科のノートを忘れたのだと思って受け取ると、「秘密のノート」とこっそり名付けた方のノートで血の気が引いた。 「名前書いてなかったから中身見ちゃった、ごめんね」 「違う、私のじゃない。友達が描いたの。私じゃないの」  漫画を描くのは好きだったけれど、人に見せたことはなかった。決して上手な方ではないとわかっていたから恥ずかしかった。幼稚園の頃からの幼馴染にも言ったことはなかった。なのに、ほとんど話したことがないクラスの男子に見られて、困った末にそう弁解した。言いふらされたら終わる。そう焦っていた。 「面白かったよ。すっごく面白かった」  中馬は授業中に先生にあてられた時よりも大きな声で言った。いつも猫背でおどおどしている中馬とは思えなかった。中馬はさらに続けた。 「『闘魂パンチ』より面白かった」  びっくりした『闘魂パンチ』は父親の世代に大流行した不朽の名作漫画だ。父親が全巻揃えていたので当然読破済みだったし、学童の先生のオススメでもあるので学童に置いてある唯一の漫画だ。そんな巨匠の傑作よりも面白いと言われて、私は完全に舞い上がっていた。 「本当に? 嘘じゃない? 命かける?」 「うん。命かける。神様にも仏様にも誓って本当。続き、読みたい」  小学生の頃はみんなやたらと軽率に命をかけていた。今のように命を削って何かをするでもないのに、やたらと強い言葉を使った。 「絶対誰にも言わないならいいよ。約束破ったら、先生に言うから」  もう自白してしまったも同然だったので、私は中馬に念押しした。 「うん。絶対誰にも言わない。じゃあ、放課後ね」  そこでようやく中馬が放課後私と同じ学童に行っていたことを思い出した。幼稚園からの仲良しの友達はみんな習い事に行くか家に帰るかしていたので、新しい友達を作る勇気のなかった私は一人でひっそり漫画を描いていた。学校と違って“友達じゃない他人”が何をしているのかは気にも留めずに仲間内で遊んでいる子が多い環境だったので、人の目を盗む必要もなく漫画に没頭できた。  きっと、中馬は私が漫画を描いているのを見ていたから、ノートが私のものだとわかったのだろう。そして、私は集中しすぎて中馬に見られたことにも気づかなかったのだろう。  放課後、五・六時間目に描いた続き絵を学童で中馬に見せた。中馬は食い入るように読んだ。私は心臓がバクバクしていた。自分の描いた漫画を見せるのは初めてだったから。 「うん、面白いよ! ワクワクするし、主人公がかっこいい!」  分厚い眼鏡の奥の瞳をキラキラさせながら中馬が言う。私は真っ赤になってお礼も碌に言えなかった。やっぱり恥ずかしい。でも、それでも見せることを選んだのは「面白い」と言われて嬉しかったからだ。 「続き、明日読んでもいい?」  私が黙ってコクリとうなずくと、中馬は喜んでいた。そのあと、私が漫画を描く邪魔をしないように隅っこの方で静かに『闘魂パンチ』の三十三巻を読んでいた。  それから、学童で中馬に漫画を見せるようになった。感想をもらえるのは想像以上に嬉しくて、どんどん続きを描きたいと思った。今覚えば『闘魂パンチ』と比べるなんておこがましいほどの拙い漫画だった。世界が滅ぶ鐘が鳴る前に、魔王城からお姫様を救い出す話。今読み返すとストーリーの矛盾も多く、絵のデッサンもひどいものだが、主人公のキャラメイクは今の私に通じるものがあるかもしれない。 「私さ、将来漫画家になりたいかも」  深く考えずに口にした一言だった。ただ、私の漫画を面白いと言って読んでくれる人がいる。それが嬉しかった。 「なれる、里桜ちゃんなら絶対なれるよ!」  四年生になる頃には、私は中馬に下の名前で呼ばれるようになっていた。深い意味はない。学童に佐藤さんが三人いて紛らわしかったので「里桜って呼べば?」と私の方から提案しただけだ。  学校では里桜ちゃんなんて呼ばれることはなかった。朝の会から帰りの会まで一言も話さない日の方が多かった。中馬は「絶対誰にも言わない」という約束を律義に守って、学校では私たちが“秘密の友達”であることを悟られるようなそぶりは一切見せなかった。 「ねー、中馬聞いてよ! 売り切れなんてありえなくない? こういうのリフジンっていうんだよね!」  学校では話すことはなかったけれど、学童での中馬に対する口調はだいぶ砕けたものになっていた。内弁慶の一種で、人見知りはするけれど仲がいい友達の前ではやたらと饒舌なのは昔から変わらない悪癖だ。  人気漫画の新刊発売日を勘違いしていたせいでどこの書店でも売り切れになった。それだけのよくある話で延々愚痴を言い続けた。 「ちょっと、ちゃんと聞いてる? もしかして寝てた? おしゃべり中に寝るの、マナー違反だから!」  その頃から中馬は時々授業中に居眠りをして先生に怒られることが増えていた。別に中馬は秀才キャラでもなんでもなかったし、私も同じように居眠りで怒られていたからその時は気にも留めていなかった。 「聞いてたよ。貸そうか? 僕、買ったから」 「でも、学校に持ってきたら先生に没収されちゃうよ」 「日曜日、僕の家に読みに来ていいよ」 「えー、でも、テミヤゲとかゴアイサツとか面倒だからいい」  お友達のお家に行くときには手土産を持って、ちゃんと相手のお母様にご挨拶をして……母にはそう言いつけられていたが、面倒くさかった。 「別にいらないよ。お父さんもお母さんもいないから」  私はラッキーだと思い、漫画ノートと筆箱だけを持って中馬の家に行った。中馬の家にはたくさんの漫画があった。お目当ての漫画を読ませてもらった後、今でいうところのメイキング公開のように「こう描くんだよ」とドヤ顔で披露して目の前で主人公のイラストを描いて見せた。  大人のいない空間というのは想像以上にのびのびとできたので私は中馬の家によく行くようになった。手土産のことを言われると面倒だったので、漫画を読みに行っているのだから、「図書館に行っている」と適当にごまかした。  私の描いている漫画がクライマックスに差し掛かった四年生の冬頃、中馬は私に質問した。 「里桜ちゃんは何で漫画が好きなの?」 「えー、面白いからに決まってんじゃん! 変な中馬! なんでそんなこと聞いたの?」 「僕は、漫画読んでる時だけは嫌なこと全部忘れられるから。余計な事考えなくていいし、ここじゃない世界に行ける気がするから」  私はその時、中馬の部屋の無数の漫画たちに嫉妬した。中馬は私の漫画以外も読んでいる。私はこの世界で中馬に「佐藤さんの漫画、面白い」と言ってもらえて、この世界で漫画家を目指しているのに、中馬にとってはそうじゃない。なんとなく、いらっとした。 「なにそれ? 私は今楽しいけど、中馬は楽しくないの?」  私がそう言うと、中馬は途端に慌てだした。 「違う! そうじゃない。ごめんなさい。本当にそうじゃなくて、うまく言えないけど、本当にそんなつもりじゃない」  弁解しようとしているけれど、うまく言葉にできない中馬。私もそこまできつい言い方をするつもりじゃなかった。気まずくて、そのまま中馬の家を後にした。  その直後、私は風邪で学校を数日休んだ。登校したら中馬は転校していた。  私が学校に行ったとき、クラスのみんなはもう中馬のことを話題にしていなかった。中馬が心の内を話せるのはきっと私だけだったのかもしれない。中馬の親が離婚したことを、親経由の風の噂で知った。  休日もお互い浮気相手と会っていて……。子供が不眠症になっても見て見ぬふり……。大人たちはそう話していた。中馬のことを何も知らなかったのだと思い知らされた。  私と中馬だけが知っている物語の結末を見届けることなく、中馬はいなくなってしまった。タイムリミットの鐘はなってしまった。勇者は永遠にお姫様も世界も救えない。 ◇ 「その子のこと、好きだったんですか?」  一通り私が話した後、西崎さんは今日初めて私の顔を見ないで言葉を発した。 「分からないです。恋とか、考えたこもとなくて。いまだに恋が何だか分かりません」 「でも、その子は先生のことが好きだったかもしれませんよ」 「それはないですよ。私は随分と無神経なことを言ってしまったから」  突然、自分に縁のなかった恋愛の話題になり一瞬動揺した。 「その子は夜も眠れないくらい悩んでたのに、私は気づこうともしなかった」  思い出すと涙がこぼれそうになるが、私に泣く資格なんてない。言葉を絞り出した。 「家のことで悩んでるの、気づいてあげられなかった。力になれなかった。彼は私に夢をくれたのに。私は何もできなかった」 「先生は何も悪くありませんよ」 「それで、今も思ってるんです。もし、私が漫画家になって、思いっきり面白い漫画を描いたら彼もこの世界のどこかで笑ってくれるかなって。その瞬間だけでも、嫌なこと全部忘れてくれるかなって」  あれから、寝る間も惜しんで漫画を描き続けた。そして漫画家になり、連載を勝ち取った。中馬が私の漫画を読んでくれたか知るすべはない。  ペンネームの鐘城護は「誰かの心を護れる」ようにとつけた、というのが表向きの理由だ。本当は私が護りたかったのはあの日の中馬の心だ。たとえ時間は巻き戻せなくとも、過去の傷も全部忘れられるようなそんな最高の漫画を描きたい。タイムリミットのお城の鐘が鳴る前に戻って中馬の心を護れる人になりたい。それが私の目標。久しぶりに勝ち取った連載。私は絶対に最高に面白い漫画を描く。 「長々と語ってしまってすみません。失礼します」  椅子から立ち上がり、一礼して西崎さんに背を向ける。部屋を出ようとしたとき、落ち着いた声で呼び止められた。   「先生、忘れ物ですよ」  慌てて鞄を開けて漁りながら、机の上を確認する。私の私物はそこになかった。 「忘れ物だよ、里桜ちゃん」  王子様がシンデレラにガラスの靴を差し出すように、西崎さんが私にガラスのようなシャープペンシルを差し出した。 「え……?」  西崎さんは私に詰め寄ると、壁際に腕をついた。いわゆる壁ドンだ。 「僕との思い出語ってくれたのは嬉しいんだけどさあ、その割に僕の顔も名前も忘れてるなんてちょっと酷いんじゃないかなあ? 里桜ちゃん」  私は西崎さんに本名を名乗っていない。「友達」が男の子だと私が言う前に男だと気づいた。嘘だ、なんで?理解が追い付かなかったが、懐かしいその名を呼ぶ。 「ちゅう……ま……?」 「正解。中馬恭一でーす。久しぶりだね。名字が変わったくらいで気づいてくれないなんて、傷つくなあ。僕はすぐに分かったのにさ」  少しだけ不貞腐れたような口調で言う。男性とこんなに至近距離で会話をしたことがないので、心臓がバクバクと鳴っている。 「そんなカッコよくなってたら分かんないよ!」  天パで、ちょっと出っ歯で、クラスで1番背が低くて、言っては悪いが今の私と同程度にはダサい雰囲気だった中馬がイケメンの好青年になっていたら誰だって驚く。  パニックになりながら思わずそう答えると、余裕綽々だった中馬が少し頬を赤らめた。 「そりゃ、里桜ちゃんに釣り合う男になりたくて頑張ったからなあ。歯列矯正とか縮毛矯正とか筋トレとか。眼鏡もコンタクトにしたんだよ。あとは……」  目を逸らしながら、少しおどおどとした口調に戻る。昔の中馬の面影を見た。 「何で初対面のフリなんてしたの?」 「ん? 僕、初めましてなんて言ってないよ? 里桜ちゃん忘れっぽいし、どれくらい僕のこと覚えてるか気になって探り入れてみただけ」  言われてみれば……。しかし、十七年ぶりの再会だというのに、中馬はやたら落ち着いていた。 「意地悪……。気づいたなら、教えてよ! 大体もっと驚いたっていいじゃん!」 「驚かないよ。だって、会う前から鐘城護先生が里桜ちゃんだって分かってたし」  鐘城護の本名は非公開だ。女性であることすら、一部の人間しか知らない。 「何で分かったの……?」 「そりゃあ、気づくよ。先生のファン第1号は僕なんだから。デビュー作読んですぐに分かったよ」 「だって……十七年だよ?」 「ああ、もうそんなに経つんだ。じゃあ、これ。里桜ちゃんが僕の家に十七年前に忘れていったシャーペン。ダメじゃん、大事な漫画描く道具忘れちゃ」  中馬がシャーペンを私の顔の前に持ってきた。あの頃はトーンもGペンも持っていなくて、シャーペンで漫画を描いていたことを思い出す。 「それに、ちゃんと寝れてる?ちゃんとご飯食べてる?里桜ちゃん体そんなに強くないんだから無理しちゃだめだよ」 「中馬……西崎さんこそ……」  旧姓で呼びかけて新姓で呼びなおした。中馬は私を心配するが、不眠症気味だった昔の中馬を知っている身からすると中馬の方が心配だ。 「すごく呼びづらそう。中馬でいいよ。なんなら恭一って呼んでくれてもいいよ」  中馬が悪戯っぽく笑う。どこまで本気なのか分からない。すごくからかわれている気がする。 「もしかして僕のこと心配してくれてる? そういやあの頃やたら寝不足だったなあ。里桜ちゃんのせいで」 「ごめんなさい……」  そうだ。私はずっと謝りたかった。怒ってるならそれでいい。恨んでるならそれでいい。 「言い方悪かったな、ごめんごめん。親が仲悪いのは里桜ちゃんのせいじゃないし、むしろ里桜ちゃんと里桜ちゃんの漫画に救われてたからすごく感謝してる。さっきの話だけど、憧れの女の子の前で弱音吐く方が悪いっつーの。当時の僕、結構情けなかったからその辺の部分だけ都合よく忘れてくれたりしない?眠れなかったのは単純に恋の病ってオチ。里桜ちゃんは知らないと思うから教えておくけどさ、好きな子のこと考えると夜眠れなくなるんだよ」  シャープペンシルを受け取る。私が過去の中馬を傷つけたのではなかったことに安堵すると同時に、新たな情報を整理するため復唱する。 「好きな子……?」  中馬が大きく溜息をついた。 「いや、ここまで鈍いとさすがに漫画家としてどうよ……?」  中馬の大きな手が私の頬を包み込む。そして、中馬は私にキスをした。 「ずっと好きだった」  唇と唇が一瞬触れるだけの優しいキスだったけれど、頭がスパークする。中馬ってこんなに積極的だったっけ……? 「会いたかったよ、里桜ちゃん」  ぼーっとした頭の私を、中馬が抱きしめる。 「また中馬と会えるなんて思わなかった、こんな偶然あるわけないって」 「僕は会えるって信じてたけど、里桜ちゃんがそういうなら、運命ってことにしておく?」  中馬は「偶然」を「運命」にさらりと言い換えた。私の人生の方向性を決めた魔法使いは、キザな王子様になって私の前に現れたようだ。  中馬の言うことが本当ならば、恋を知りつつある私は、今日から今までとは別の理由で眠れなくなるのかもしれない。
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