Long time no see , and...

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雨上がりの道路は日の出た昼過ぎになって乾いたが、山を抜ける道路の日陰は水の痕跡が残るままだ。 前後に車がないのを確かめ、やや広く取られた路肩に車を寄せた。 駐車して降りると強く濡れた緑が匂ってきた。 舗装道路の淵にはもう雑草の蔓延る土の地面になり、深い木々の林に繋がり、緩やかに上る山の斜面になっている。 ……このあたりの山に行き交う動物では狸と狐、近頃は鹿と猪も増えたが、ついにツキノワグマの目撃情報まで上がってきた。 自治体の注意喚起の情報を聞いてからいくつかの話を集めてみると、おおよそこの辺りで見かけた、ということらしい。 足を踏み入れれば濡れたままの下生えにズボンの裾がびしょ濡れになるだろう。 今のところ特に何かが処置された様子もない。 「クマ出没」の注意喚起看板あたりが準備されても良さそうだが。 俺はゆっくり周囲を見回した。 山を通過するとはいえ、このエリアまでとうとう熊がでてきたのか、という物珍しさで見に来た。 もちろん、出くわすことなど期待などしてない。 ただ「現場」が気になって見に来ただけだ……パトロールではない、あくまで一般人の野次馬だ。 仮に現れたらすぐに中に飛び込めるよう、車から離れ過ぎないようにしていたが、しばらくすると「そう繰り返し出ることもないか」と多寡をくくり少しづつ林に近づいた。 風もなく車も通らない。 無音の中で俺の靴底が地面を踏みしだく感触が伝わる。 路肩近くの常か、モラルの無いドライバーが放っていっただろう生活ゴミが所々に捨てられてあり、さっきまでの雨のため泥に塗れていかにも詫びしい眺めだ。 わざわざ熊を呼び寄せるような原因の一つになってるだろう、これは……そんな事を思いつつ爪先で空き缶を突いたりコンビニ袋に包まれた弁当ガラらしきものに眉をしかめつつ歩き回っていると、異質なものが見えた。 スチール製テーブルの脚が転がっているのか、それとも何かのフレーム材の破片かとも思い、目を凝らすと、持ち手らしき箇所が見えた。 何の気もなく近寄ると、刃渡りが10か15センチくらいのナイフだ。 折り畳み式ではなく、シースナイフ。 濡れて泥を被っているが、汚れもひどいわけではなく、そんなに長く放置されていたわけでもなさそうだ。 熊の目撃情報もあって少しは付近も人が調査したと思うのだが見落とされるとも思えず、落とされてそんなに時間が経っていないのではないかと思われた。 ……しかし時期や場所としてキャンパーの行き来するには違和感もあるし、うっかりと抜身で落としてしまうにはモノがおかしいだろう。 近くにしゃがみ込んでナイフを見下ろした。 新しい製品ではない。 それなりに使い込まれている。 いわゆる戦闘用ではなく、野外の活動で使うためのものだが刃渡りももちろん、今では平時に持ち歩くのが違法な代物だろう。 ……まさか犯罪の証拠とかじゃないだろうな。 刃の状態を見る。 どことなく血脂めいた曇りがあるようにも見えるが、雨水がかかっていてはっきりとはわからない。 関わらない方がいいか……。 急に異質な匂いが鼻に漂ってきた。 暫くして、動物特有の「獣臭さ」であるのに気がついた。 同時に、それまで気にならなかった周囲の音に神経が向いた。 林の奥の方に葉擦れの音がしている。 俺は反射的にナイフを拾い上げた。 もし飛びかかってきたのならこの刃を突き立ててやろう。 それで熱い身体から血を流させてやろう。 ジッパーを力強く引くような音がして葉擦れの音がして、それから遠ざかった。 俺はそのまま車の横に回り込みドアを開けて車内に飛び込んだ。 座席に座ると助手席の足元にナイフを放り出し、閉じたドアをロックして暫く音のした林の方を伺った。 脚がガクガクと震えてまっすぐ座れていない。 キーをキーシリンダーに挿そうとしたが指が震えて上手く入れられない。 ……林の方には動く影が見えない。 シートに背中を預けて深く呼吸をした。 手の震えが収まったところで、ゆっくりとシリンダーにキーを挿しエンジンをかけ発車した。 山から離れ市街地に入り交差点の信号に捕まった時に、助手席の足元を見て気がついた。 あの場所から拾ってきたナイフを剥き身で放り込んであったことに。 アパートの駐車場に車を入れてから問題のナイフを見下ろした。 あの場に放置されるべきではないものだが、まさかそれを持ち帰ったことに自分で途方に暮れた。 銃刀法にかかるだろうもので、そもそも正当な理由がどこにもない。 これから警察署に届けるのは……と考えてこれを拾った場面を思い出した。 葉擦れの音に反応して思わず柄を握り拾い上げている。 このナイフには掌から俺の指紋や掌紋、汗などがべっとりとついてしまったことだろう。 落とし物ならばそれもいい、仮にこれが厄介な事件の物証だとしたら……。 そう考えつくと、このまま警察署に持ち込むことが難しく思えてきた。 どうするか、またこのまま手にするのは気が進すすまない。 車内を探ると押し込んであるコンビニ袋が見つかった。 まずはこれを人目につかないようにしないと。 袋を開いてから床のナイフに手を伸ばし、 これで切り裂いてみたらどうなのだろう。 きっと何とも言えない快感が溢れ出すだろう。 ナイフの刃先を摘んで袋に放り込むと、袋に裂け目ができた。 慌てて柄のあたりを握り、袋全体を圧縮し刃の付近を袋の余りの部分でぐるりと巻いた。 挙動不審な仕草で車を降りて人目を気にしつつ自室へと向かった。 部屋に戻ってから改めて素性の分からないナイフを持ち込んでしまったことに気づいた。 何をしてるんだ、と自身を叱りながら、リビングなどに持ち込むのも気が進まず、脱ぎ捨てた靴の脇に袋に包んだまま置いた。 さてどうするか、と俺は頭を捻った……早いところこのナイフを厄介払いしなければならない。 改めてあの場所に戻り、元どおりに置いてくるか。 本当ならそれで知らんぷりすれば良かったのだが、素手で持った時に俺の痕跡をつけてしまった。 何か曰くがあるのなら、知らない場所に投棄することもできない。 失敗に失敗を重ねた。 アパートに戻る前に警察署に寄って届け出れば良かった。 回収する際につい握ってしまった、と素直に言えば分かってくれただろう、何なら今からでも…… そう思い腰を上げようとして俺は止まった。 このナイフが単なる落とし物ではなく、やはり何かの事件に使われたものだったら俺はどうなるのだろう……。 俺自身が持ち主だと決めつけられて捜査中の事件を紐づけられたとしたならば、……いや、そんな事件などが実際にあるのかどうか、まるで分からない、単なる落とし物かもしれない。 考えると動けなくなった。 場合によっては犯したことのない罪に問われてしまうかもしれない、そのまま届け出るのは危険すぎる。 少し時間を置いたらどうだろう、気になる事件の有無や警察に疑われないような釈明などを考える時間を。 単なる思いつきが元でとんでもない事態になったもんだ。 しかし見つけてから既に二度……妙な感触を味わった。 林の中で獣の気配を感じて咄嗟にナイフを握りしめた時、猛獣かもしれない相手に、まるで得物を持って受けて立つかのような、震い立つかのような感覚。 いや、違うな。 戦いたがってたわけじゃない。 あれはそう。 二度目の刃先を摘んだ時にも妙な感じがした。 「この刃で思い切り切り裂いてみたい」という感覚だ。 実際の物体を刺し、切り、削いでみたい。 その切れ味を存分に試したいという気持ちだ。 ゾッとした。 仮に林から熊や鹿が飛び出してきていたらナイフを持って向かっていったかもしれない。 いや、それも違うな。 触れている時に、明らかに生きたモノに使いたいと思っていた。 全身から血の気が引いた。 信じられないことだが、自分は切り裂き魔のような意識に近づいていたのだ。 機能を持って造られた道具は、それが持つ力を発揮したがる。 ハンマーであればそれを打ち下ろしたくなるし、鋏ならば平面を切り離したくなる。 バルブの取手は開放して閉じたくなるし、扉は開けて閉めたくなる。 カメラは人や物を写したくなるし、楽器もそれぞれの音を出したくなるものだ。 人は目的のために様々な道具を創造してきた。 それがある時、逆転する時が来る。 機能的に造られた道具は人を誘惑する。 人が道具を使用するために目的を探し始めるのだ。 切るべきものがあるからナイフを手に取るわけではない。 ナイフを使いたいから切るものを探し始める。 気のせいじゃないのか。 いや、思った以上に危険な代物だったのかもしれない。 これはすぐに手放さなければいけない、と俺は考えた。 警察の事件捜査が仮にあったとしても、もはやそれを配慮する余裕はない。 どこか人の見つからないところに捨てに行こう。 何、誰かが次に見つけてもその時に俺と繋がるものがなければ構うものか。 しかし捨てる前に、出来るだけ自分の痕跡を落としてからにしないと。 俺はダイニングに行き、使い捨てのビニール手袋を取り出し両手にはめた。 浴室でバケツの中に湯を張り、漂白剤を溶いてから、玄関に放り出してあったナイフを持ってきて袋から出し湯に浸けた。 ……証拠隠滅をする実行犯そのものだ。 新しくスポンジを取り出し、直に触らないよう注意深く湯に浸しながら刃の腹を摘み、素手で握った柄の部分を磨いた。 これで痕跡を完全に消せるものかわからないけれど、自分との関連が薄まりさえすればいいのだ。 それでどこかで、 存分に切り刻みたい。 頭に響いてから指先に違和感を感じた。 湯から右手を出すと、中指が袋の中でわずかな、小さな出血をしていた。 ほんのささやかな切り口が手袋にできていて、そこから切り傷を付けられた。 手袋の中で赤い色が広がり次第に中を染めた。 刃の先端に触れないように注意していたがどこかの箇所に引っ掛けたのか。 右手の手袋を外し、カランから流水を流して指を洗った。 鈍い痛みが徐々に感じられてきた、しかしそれ以上に。 左手で湯の中からナイフを取り出した。 磨いたナイフが明かりの下で輝いて見える。 左手で柄を握り、刃先を自分の前腕の内側に滑らせた。 赤い直線が描かれてその上に小さな紅の珠が膨らんだ。 痛みが伝わってきたが、それ以上に不思議な満足感が胸に満ちてきた。 ナイフの柄を、手袋の左手から素手の右手に持ち替えると、全てがあるべきところにおさまったという気分になっていた。 ……ネットの検索を辿るといくつかの古い記事が見つかった。 とある街の人通りの少ない夜の路上で正体不明の人物による連続通り魔事件。 刃物によって襲われ数人の死傷者を出したまま、犯人逮捕に至らず迷宮入りとして風化したものだった。 今の俺は知っている。 この犯人は既に罪悪感から人知れぬ場所で自裁している。 その代わり、犯行に使われた凶器のナイフは持ち主を変えて渡り歩いている。 ナイフの持ち主はいずれもそれを使う衝動に動かされ、ある者は自分を、ある者は他人を傷つけ、手にかけた。 ナイフを手にした者は、ナイフの記憶を通して過去を見て、ナイフ自身の強い衝動と欲望に支配される。 俺の前の持ち主はまだ理性的だった。 人間を手に掛ける衝動と闘い、結果として山の野生動物で密かに殺害の衝動を処理しようとしていた。 アイデアは悪くなかったが、素人に狩られるほど動物も間抜けではなかった。 それどころか動物を狩ろうとして……逆に熊に狩られ、林の奥に骸にされているようだ。 ナイフはその時に落とされて、それで俺に巡り合った。 俺の上半身には今や無数の赤い線が描かれている。 普段着の時には気づかれないように目に見られる場所には刃を立てないつもりで続けてきたけれど、いい加減もう空いた場所も少ない。 ナイフはそろそろ囁く。 久しぶりに街に「狩り」に出たいんだが。 夜が訪れる度に不思議な高揚が湧き上がる。 街はいつも狩りのシーズンなのだ。
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