side 彼

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 それは本当に仕方なくだった。  あの子と付き合う前はよく行っていた店、出会いを探すための店に久しぶりに行ったのは呼び出されたから。  あの子と付き合うようになってからも昔からの友人に呼び出されれば店に顔を出すし、馴染んだ顔を見つければそのまま2人で店を出ることもあった。  付き合っているのはあの子だし、大切なのもあの子だけ。  部屋の鍵を渡してるのもあの子だけだし、家に入れるのもあの子だけ。  馴染んだ顔と出会った時に2人で店を出ても向かうのはホテルだし、そんな時にする行為はただのスポーツ。  恋愛感情とか、好きとか嫌いとか、そんなのは関係無くて、ただただ発散するために身体を動かすだけ。  だから罪悪感なんて何も無かった。  スポーツが趣味なら彼氏彼女がいても友人とスポーツを楽しむのなんて、そんなのは当たり前のことだから。俺のしているのはスポーツなんだから、と悪い事をしているなんて感覚は全く無かった。  その日も呼び出されて店に行ったのは昔馴染みから呼ばれたからで、その理由なんて考えることもなかった。  明日はあの子との約束があるからスポーツをする気分じゃないけれど、それでも休みの前日に飲むのは嫌いじゃない。 「久しぶり」  それなのに昔馴染みと同じテーブルに座り、嬉しそうに手を振るソイツを見て思わず舌打ちをしてしまう。「久しぶり」なんて笑顔で言っているけれど、自分が俺にした事は覚えてないのだろうか? 「何でコイツがいるの?」  振られた手に応えず同じテーブルの昔馴染みを睨みつける。こいつだって俺たちの間に何があったかなんて知ってるはずなのに、よくもまあ呼び出せたものだ。 「久しぶりにお前に会いたいって言うから」  目を泳がせるのはきっとそれだけの理由ではないから。だいたい、浮気して他の男の方が良いとか言って一方的に俺のことを捨てたくせに、よくも平気な顔で座っていられるものだ。 「会いたいからって何?  俺は会いたくなかったんだけど」  同じ席につくのは嫌だったけれどそれほど広くない店は空いた席がなく、仕方なく同じテーブルに着く。「まずはビールだよね」と付き合っている頃と同じように俺の飲み物を注文してニコリと笑う。  この笑顔が好きだったのはもうずいぶん前のことだ。 「で、俺は何のために呼び出されたの?」  聞きたくないけれど聞かないわけにもいかず、友人に向けて言ってみるけれど目を逸らすだけで埒があかない。 「用がないなら帰るよ?」  立ちあがろうとした時にちょうどビールが来てしまい、しかたなく座り直すとアイツが口を開く。 「ボク、行くところがないんだよね。  少しの間でいいから部屋に置いてくれない?」  その言葉に友人はますます目を逸らし、「ちょっと、トイレ」と席を立ってしまう。アイツはそんな友人を見てケラケラ笑うけれど、こちらはそんな余裕はない。 「置くわけないだろ。  だいたい今、付き合ってる相手いるし。お前を部屋に入れるつもりはないよ。  そんな用事なら帰るから」  あまりの馬鹿らしさにビールを飲み干して席を立つ。自分の分のお金は少し多めに置いておいた。  そこまでは良かったんだ。  馬鹿らしい言葉を聞き流し、そのまま部屋に帰って風呂に入る。中途半端に飲んだせいで何となく飲み足りなくて冷蔵庫の中のアルコールを適当に飲む。ダラダラと過ごしているとインターホンが鳴り、こんな時間に誰だと確認すればニヤニヤと笑うアイツが立っていた。 「何してるの?」  部屋にいるのを知って来ているのだから、居留守を使っても仕方ない。そう思いドアチェーンを外さずにドアを開ける。 「泊めて」  付き合っていた時はこの笑顔が好きだったな、なんて思いながら「他、当たって」とドアを閉めようとすると突然大きな声で叫び出した。 「入れてってばーっ‼︎  何で入れてくれないの?  もう嫌いになっちゃったの?」  言っている事は殺伐としているのにその顔は笑顔で、「馬鹿、止めろって」と言っても笑顔で大声を出し続ける。 「まだ好きなのに」 「お願い、捨てないで」  それは別れる時に俺が言った言葉じゃないかと嫌な気持ちになるけれど、それよりも近所の目が気になってしまい招き入れてしまったのが間違いの始まり。 「お前、本当やめろって」  そんな風に言っても平気な顔で部屋に入り、勝手に冷蔵庫を開ける。 「こんな強いのばっかり飲んでると肝臓悪くするよ?」  なんて言いながらアルコール度数の高い酎ハイを取り出して当たり前のように飲み始めるとテーブルの上の空き缶を見て笑う。 「もう酔ってる?」  それなりの期間付き合っていたせいでアルコールの許容量はバレている。だけどそれを認めたくなくて「全然」と冷蔵庫からまた酎ハイを取り出す。酔った頭で何故か〈負けたくない〉と思ったのが失敗の始まり。 「それ飲んだら出てけよ」  そんな言葉をかけながらも聞かれた事に素直に返事をしてあの子の事をペラペラと話してしまう。  どれだけ可愛いか、どれだけ良い子なのか、どれだけ好きなのか。  明日はあの子と約束があるから帰ってくれと、この部屋にもうお前の居場所はないんだと言ったのが気に入らなかったのだろう。巧みに言葉で誘導されて、何故かベッドの上でアイツに跨り、何故か腰を振っていた。  そして写真を撮られ、脅された。 「今週だけでいいから部屋にいさせて」  写真をチラつかされて脅されたら断ることなんてできなかった。 「明日の予定はキャンセルしてね?」  写真をちらつかしてそう言われれば、あの子に断りのメッセージを送るしかなかった。  今まで部屋に来た事はあったけど、合鍵を使った事はなかったからまさか心配して部屋に来てくれるなんて思わなかったんだ。  週のどこかで外で会って、その間にコイツを追い出して。  1週間経てば元の生活に戻れると思ってたんだ。  こんな事になるなんて思ってなかってんだ。  風邪を引いたから会えないと送った俺を気遣って、俺がいないうちに食事を作ってくれていたのだろう。  慌てて変な言い訳をして帰るあの子を見てニヤニヤしていたアイツは吹きこぼれた鍋に焦って俺を呼ぶ。  それくらい自分で何とかしろと思ったけれど、何とかしようとして困っているのに気付いてしまえば放っておくこともできない。  未練を残したまま別れた相手だからどこか突き放しきれなかったんだ。  追いかけろとも、行くなとも言わないアイツはこのまま居座るつもりかもしれない。 「ねぇ、これ片付けるの大変だよ?  うわ、ベトベト。  何これ、脂?」  俺があの子を追いかけなかったことに気を良くしたのか呑気な声が腹立たしいけれど、自分のしてしまったことを考えると俺は悪くないとは言えなかった。  吹きこぼれた鍋の中身は参鶏湯で、そう言えば前に風邪を引いた時に作ってくれたんだったなと泣けて来る。  ポストに入れられた鍵はいつの間にかアイツのキーホルダーに付けられていた。  会いたいけれど、謝りたいけれど、メッセージを入れても電話をしてもあの子からのリアクションは無い。  言い訳のできないことをしてしまった俺は鍵を置いていったあの子の気持ちを汲み取って、引き下がるしかなかった。  あの時、鍋が吹きこぼれなければ追いかけることもできたのに…。  こんな風になってしまったのはきっと、馬鹿な俺と参鶏湯のせいなんだろう。  
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