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side 僕
合鍵を渡しているのに浮気をする男って、何で先を見通せないんだろう?
本当は会う約束をしていたのにキャンセルのメッセージが来たのは前日の夜、金曜日の夜も遅くになってからだった。
《明日仕事になった》
《風邪気味だし、キャンセルで》
〈夜も会えない?〉
《感染ると悪い》
会いたいけれどそんな風に言われてしまえば諦めるしかない。
彼が急に仕事になるのはたまにある事で、そんな時はどうしても外せない仕事らしいから我儘も言えない。
〈了解〉とスタンプを送っておくと《ごめん》とスタンプが返ってくる。
明日は久しぶりに会えると思ったのに、と残念に思うものの仕事だし、風邪だし、我慢するしかないと自分に言い聞かせる。
だけど何か自分にできる事はないかと考えて、冷蔵庫を漁る。
長葱、しめじ、大蒜、生姜、米。
冷凍室には凍らせた手羽先があった。
彼の仕事の時間は9時から6時。
彼が仕事に行っている間に部屋に行けば風邪が感染る事はないだろう。
全ての材料をまとめて冷蔵庫に置き、手羽先も同じように冷蔵庫に移しておく。朝までには多少溶けるだろう。
鍋も、塩も、お酒も彼の部屋にある。
明日は風邪気味の彼のためになんちゃって参鶏湯を作りに行こう。
そんな風に思ったのが悲劇の始まり。
悲劇の始まり?
喜劇の始まり?
だって、前に風邪をひいた彼に作ってあげたら喜んでくれたから。
だから、仕事から帰った時に参鶏湯が作ってあれば喜んでくれると思ったんだ。
部屋の鍵は持ってるし、いつでも使っていいと言われてる。
今まで使った事はないけれど、初めて使うのがこんな理由だなんて…僕ってば健気だな、とニヤニヤしてしまう。
感染ると怒られるのは嫌だから彼のいないうちに作って、彼が帰ってくる前に部屋を出よう。
サプライズってやつだ。
翌日は僕は休みだったため自分の家のことを済ませてから彼の部屋に向かう。何度も行ったことのある部屋だけど、彼のいない部屋は新鮮だ。
いくら合鍵を持っているからといって何をしても良いわけじゃない、そう思い掃除や片付けをしたい気持ちを抑えてキッチンに向かう。
この時、寝室を覗いていれば僕たちの未来は違ったのかも、と思わないでもないけどそれは考えても仕方ない事だ。
キッチンで鍋を出し、持ってきた材料を全て鍋に放り込む。材料は全て下準備してきたから本当に入れただけ。
塩もお酒もどこにあるか知ってるから水と共に鍋に入れて火をつける。
あとは弱火で煮込むだけ。
本物の参鶏湯なんて作った事はないけどなんちゃって参鶏湯はこれで終了。
あとはコトコト、コトコト煮込むだけ。
蓋をしないで煮込めば透明なスープになるけれど、参鶏湯だから蓋をして煮込む。そうすれば白濁したスープになってそれらしく見える。
コトコト、コトコトひたすら煮込む。
彼の風邪が早く良くなるように、と想いを込めて。
気をつけるのは吹きこぼれないようにする事。米が入っていると吹きこぼれやすいのだ。
コトコト、コトコト。
レシピには30~40分と買いてあるけれど、60分くらい煮込めばトロトロでホロホロになる。
1時間ほど煮込んだら彼にメッセージを送って帰ろう。
そんなことを思いながらスマホを弄る。時間を測りながらメッセージを考えて、彼の喜ぶ顔を思い浮かべる。
コトコトと煮える鍋からいい匂いがしてくる。
生姜と大蒜できっと風邪も良くなるはずだ。
大蒜は匂いが気にならないように潰さずに入れたけど、間違えて食べてしまわないように後で取り出したほうがいいかもしれない。
少し大雑把な彼のことだから気を付けてと言ってもきっと食べてしまうだろう。
そんな事を考えていた時にカチャリと音が聞こえた。気のせいかと思ったけれど、ドアの開く音と話し声が聞こえる。
「あれ?」
「どうかした?」
「ちょっと、」
何だか焦った彼の声と、不思議そうな誰かの声。仕事だし、風邪気味だし、と言っていたけれど調子が悪くて早退したのかもしれない。
「おかえり、体調悪い?」
何も考えずに玄関に向かった事を後悔することになるなんてこの時は思っても見なかった。もしもこの後の事を予想できていたら、バックやスマホを置きっぱなしになんてしなかった。
「どうしているの?」
彼の体調を心配した僕に向けられた言葉は思ったのと違う、困ったような、怒ったようなものだった。
仕事と言った彼はジャージだったし、隣にいる男の子が着ているのは僕がこの部屋で過ごす時に着ている部屋着だった。
「どうしてって…」
「誰?」
僕の言葉とその子の言葉が重なる。
そして、僕とその子を見て困った顔をする彼。
僕に言い訳をするのでもなく、その子に何か言うわけでもない。だけど、何となく分かってしまったんだ。
仕事だと言ったのにジャージの彼。
僕がいつも着てる部屋着のその子。
きっと今、ここで邪魔なのは僕だ。
「ごめん、お兄ちゃん。
暇だったから遊びに来たけどお邪魔しました。
あ、母さんがご飯ちゃんと食べてるか心配してたから鍋にスープ、作っておいた。
もう出来てるから」
言い訳するように言って部屋に戻り、カバンとスマホを持つ。
部屋の掃除をしたり、片付けをしていたらその子の痕跡に気づいたかもしれない。寝室だったり、洗面所だったり、掃除をしようと思っていたら何かがおかしいと気づけたかもしれない。
だけど今はそんな事を言っている場合じゃないと、荷物を手に急いでキッチンを出る。
「お邪魔しました。
お邪魔してごめんなさい」
玄関で靴を履き、急いで外に出る。
そして、持っていた鍵をポストに入れる。
「ちょ、待って」
玄関に向かう時にそんな声が聞こえたけれど待つわけがない。
「ねぇ、ちょっと、鍋大変だよっ」
そんな声も聞こえてきたけど、何があったのか何となくわかったけれど、そんなの僕には関係ない。
「ぅわ、火、止めて」
「どこ?
え、IHなんてわかんないって」
そんな声も聞こえていた。
きっと、お米の入ったなんちゃって参鶏湯が吹きこぼれたのだろう。そろそろ火を止めようと思っていたところだからいい具合にトロミも付いているはずだ。
「ざまあみろ」
鍵の落ちる音を確認して急いで部屋から離れる。
追いかけてこないのは吹きこぼれた参鶏湯のせいなのか、一緒にいる男の子のせいなのか。
僕にはもう関係がないから考えないことにした。
「ざまあみろ」
いくらIHコンロでもとろみのある吹きこぼしは片付けるのが大変だろう。
2人で仲良く片付けて、2人で仲良く食べたらいいんだ。
こんな事なら潰した大蒜をたくさん入れて、2人とも大蒜臭くしてやれば良かった。
初めて使った合鍵が、最後に使った合鍵になるなんて…全部、参鶏湯のせいだ。
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