だーれだ、誰だ、誰だろう。

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 そんな罪悪感から逃げ出すように地元を出て進学してきた今、こんなところで事件の話をするなんて思わなかった。  だが大丈夫。俺が目撃者だなんて誰も知らない。知るはずもない。もちろん彼女も。  俺は誤魔化すよう彼女に言う。 「同年代の男が被害者だし、気になって調べたのかもしれませんね」 「そう……ですね。そうかもしれません。ただ、何となく覚えてるんですよ、犯人の顔を。これも調べたからなのでしょうか」  彼女の言葉を聞いた瞬間、俺は思わず足を止めた。  何を言っているんだ、彼女は。 「……犯人の顔?」 「えっと、吊り目で童顔で」  そんなはずがない。覚えているなんてありえない。だって、犯人は……。 「未成年ですよ……捕まった男は。実名報道されないし、調べたって顔がわかるはずない」 「え、でも……あれ、私」  俺が戸惑いで溺れそうになりながら言うと、彼女は狼狽始めた。  変なスイッチでも押してしまったかのように。 「だって、私……あれ、これは、私が、私の、誰の、誰が、誰を」  徐々に彼女の呼吸は荒くなり、眼球が右往左往する。  俺は慌てて彼女に声をかけた。 「大丈夫ですか。落ち着いて呼吸してください。ゆっくり、ゆっくり」 「でも、私は、誰が、誰を、誰が、誰だ」  壊れたロボットみたいに単語を並べる彼女。体験したことも見たこともない状態に驚き、俺は両手を彼女の肩に置いた。 「どうしたんですか。落ち着いてください!」  華奢な肩はひどく震え、何かに怯えているようだった。 「誰だ、誰だ、誰だ、だーれだ」  怯えているのは彼女だけではない。俺も怖かった。こんなのホラーじゃないか。目の前の彼女が怖くて仕方がない。今なら悪霊に取り憑かれていると言われても信じる。  なんだ、これは。一体何が起きているのだろう。  俺が何もできないでいると、彼女は自分の頭を抱えた。 「だーれだ、だーれだ」  もしかすると何かを思い出したのかもしれない。だが、今はそれよりも彼女が過呼吸にならないかが心配である。 「とにかく呼吸を!」  俺が促すと、彼女は言葉を止めて息を吸い込む。少しずつ落ち着いていき、先ほどまでの狂気的な雰囲気は消え去った。  そして彼女は顔をあげ、俺の目を見る。その表情は先ほどまで一緒に歩いていた記憶喪失の彼女とは違った。  正しく自我を持った、一人の女性。思わず『誰だ』と聞きそうになるくらい、別人に見える。 「あ、あの」  そんな彼女の状態を確かめるために声をかけた。すると彼女は口角を上げてからこんな言葉を放つ。   「だーれだ」 「いや、だから知らないですって」  一瞬記憶が戻ったのではないか、と期待したが違うらしい。  俺は息を吐いてから言葉を続けようとした。  しかし、それよりも先に彼女が口を開く。 「どうして知らないんですか」 「は?」  既視感。彼女と出会ったばかりの会話を繰り返しているのだろうか。  先ほどのショックでまた記憶を失った可能性がある。  俺が戸惑っていると、彼女は顔を近づけてきた。 「私はあなたを知っているのに」 「何を言っているんですか? さっき出会ったばかりじゃ」 「知っていますよ。あなたは……見殺しにした」  胸を刺されたのかと錯覚した。言葉の刃なんて生易しいものじゃない。太い杭を捩じ込まれたような気分である。狂気的な雰囲気は消えたのではなく、息を潜めていたのだろう。  恐ろしいのは言葉だけじゃない。彼女の視線は俺の瞳を捉えて離さなかった。  硬直するほどの恐怖を感じながらも、俺は無理やり首を傾げて見せる。 「な、何? 見殺し? 何言ってるんですか」 「見殺しは見殺しですよ。あの夜、あなたは事件現場にいた。そして、被害者の浅井くんを助けられる状況だったはずなのに、そうしなかった。見『殺し』にしたんでしょう、浅井くんを」 「いやそんな、なんで……」  あの夜のことを知っている人間は、犯人と被害者と俺だけだ。わかっているのに、動揺で頭が回らない。率直な感情が言葉になってしまった。『なんで』に続く言葉は『知っている』しかない。見殺しにしたことを白状したようなものである。  すると彼女は「やっぱり」と言葉を続けた。 「あの夜、私が覚えた顔は二人分。犯人とその場から立ち去る目撃者です。浅井くんを殺した男と、見殺しにした男。そっか、あなたからは私が見えなかったんですね」 「事件現場に……いた?」 「ええ、そもそも犯人に襲われたのは私でした。浅井くんはあの夜、足を刺され血を流し倒れていた見知らぬ私を助けるため、犯人に立ち向かってくれたんです。しかし、ナイフには勝てず亡くなってしまった。犯人は私も死んでいると勘違いして立ち去り、私だけが生き残ったんです。私の証言で犯人はすぐに特定され、事件は解決した。けれど、けれど、けれど……あなたがすぐに警察を呼んでくれれば、浅井くんは死なずに済んだ! あの夜の『誰だ』に答えてくれれば、犯人が怖気付き逃げたかもしれない! どうして、どうして、どうして!」  音量のボタンを長押ししたかのように、声を荒げていく彼女。  俺は理解するのに精一杯で、何も答えられなかった。 「浅井くんは私を助けてくれたのに! どうして浅井くんを助けてくれなかったの! さっきあなたの顔を見つけた瞬間、私は止まれなかった。あなたを捕まえて、どうしても聞かなければならなかった。どうして見捨てたのか。どうして見殺しにしたのか。あなたが……誰なのか。沸騰しそうなほどの憎悪で我を忘れて、私に残ったのは『あなたが誰かを確かめる』ことだけだった! あなたが誰で、どうして浅井くんを見殺しにしたのか!」  何を言っているんだ、彼女は。  俺は何を答えればいいんだ。  だって俺は浅井を憎んで、浅井は彼女を助けて、犯人は浅井を殺して、俺は浅井を見殺しにして、彼女は俺を恨んで、俺は彼女を知らなくて。  犯人は彼女を襲って、浅井は俺を利用して、彼女は俺を覚えてて、犯人は俺に問いかけて、俺は犯人を見て、俺は事件を見て。  俺は地元から逃げて、彼女は俺を見つけて、衝撃で記憶を失って、俺が殺したいほど憎んだ浅井は彼女の救世主で。俺は、彼女は、浅井は、犯人は。  身体中が電気を受けたかのように、震え始めた。過度な情報に頭がついていかない。   「俺は……俺は……だって」 「ねぇ、あなたは誰なの。誰なのよ」  わからない。俺が恨んだ浅井は何だったんだ。俺のことをあれほど玩具にしておきながら、命をかけて見知らぬ人を助ける。  そんな自分勝手なことがあるだろうか。勝手に誰かを救って、罪悪感を抱かせ、恨みを抱かせるなんて。  俺は被害者なのか、目撃者なのか、加害者なのか。もう何もわからない。  俺は……。 「誰だ」
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