だーれだ、誰だ、誰だろう。

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 俺は深い息を吐いてから彼女に問いかけた。 「……身分証か何か持ってないんですか? 住所か、せめて名前でも書いてあれば解決するでしょう」 「見てください。この通り私は鞄など持っていません。コートを着ているだけで、下はワンピース。それも薄手のワンピースです。まるで部屋着のような。だから物を収納できる場所はコートのポケットだけなのですが、どこにも何も入っていませんでした」  彼女がコートを探っていたのは、自らが何かを持っていないのか調べてるためだったらしい。  不本意だが、彼女の行動と言葉は一致していた。一致していないのは、彼女の言葉と言葉である。  その一致と不一致が『彼女が記憶喪失である』と主張していた。   「記憶喪失……本当に記憶喪失……でも、それじゃあ俺にはどうしようもないですよ。警察に行けば、相談に乗ってくれるんじゃないですか? 商店街を抜けたところに交番がありますよ」  俺が言うと、彼女は不安そうに頷く。 「そうですよね、すみません。変なことばかり言って、迷惑をかけて。交番で警察に相談してみます。けど、交番までついてきてもらえませんか? 一人では不安なので」  俺がいて何の役に立つというのだろうか。けれど、無駄な罪悪感を抱きたくはないので、仕方なく了承する。 「わかりました。じゃあ、一緒に歩きましょうか」  そう言って俺は交番に向けて歩き始めた。彼女はそんな俺の背中についてくる。 「ありがとうございます」  黙って歩いていると、気まずくなったのか彼女が口を開いた。 「あの、名前を聞いてもいいですか?」 「ああ、藤村です」 「藤村さん、ですね。学生ですか?」  沈黙が苦手なのだろうか。本当に記憶を失っているとしたら、不安で仕方ないのも理解できる。だとしたら、会話で不安を誤魔化しているのかもしれない。  俺は彼女のために会話を続けた。 「大学生です。今年からですけど」 「そうなんですね。実家に住んでいるんですか?」 「いや、一人暮らしですよ。地元は京都です」 「へぇ、京都なんですか。いい場所ですね。歴史と風情があって」  京都はわかるらしい。そういえば、記憶喪失の症状は人によってバラバラだと聞いたことがある。一切合切全ての記憶を失う人もいれば、幼い頃の記憶を持っている人もいる。また、記憶だけ抜け落ち、知識は残っている人もいるのだとか。会話から察するに、彼女はそのタイプだろう。  俺は会話を続ける。 「京都と言っても、京都府の北端。俺の地元は舞鶴市ってところなんですよ。そんなに京都らしくはないですね」 「舞鶴市ですか。細川幽斎が城を建てた場所ですよね。他にも赤レンガ倉庫郡があって……そうだ、肉じゃがの発祥地! 広島県呉市とどちらが発祥地なのか、って話もありますね」 「よく知っていますね。そんなに有名じゃないのに」  素直に驚いた。よほど興味を持っている者か、地元住民でなければ知らないような話である。  もしかすると、彼女とは同郷なのかもしれない。いや、警察に任せると決めたのだから余計な推測は必要ないだろう。気にはなるけれど。  彼女は俺の言葉に答えた。 「知っているけど、どうして知っているのかはわかりません」 「もしかしたら、住んでいたことがあるのかもしれませんね。じゃあ、舞鶴関係で何か思い出せないですか?」 「舞鶴で……そうだ、舞鶴市が全国ニュースで取り上げられたことがありましたよね。それで知っているのかもしれません」  その言葉を聞き、俺は納得する。  普段は全国ニュースで話題に上がるほど有名ではない舞鶴。だが、ちょうど一年ほど前に大きな事件が起きた。それによってニュースに取り上げられたのである。 「ああ、そういうこともありましたね」  俺は早くその話題を切り上げようと、素早く答えた。その事件は苦い思い出として俺の中に残っている。  そんな事情を知らない彼女は、事件の話を続けた。 「えっと、男子高校生が亡くなったんでしたよね。確か名前は……浅井」 「やめてくれ!」 「え? どうしたんですか、藤村さん。あの、もしかして、お知り合いだったとか? すみません、無神経な話をしてしまいましたか?」 「あ、いや……何でもない。知り合いとかそんなんじゃないんだ」  そう、知り合いなんかじゃない。  まるで臓器をかき混ぜられたかのように、腹の奥が気持ち悪くなる。鎖骨あたりがジリジリと痛み、関節の動きが鈍った。  刻み込まれた記憶。不謹慎だが、彼女のように記憶喪失になれれば楽だろうとすら思う。  俺の様子を察したのか、彼女が顔を覗き込んできた。 「本当に大丈夫ですか?」 「あ、ああ、大丈夫ですよ」 「一度立ち止まりますか?」  彼女が俺を心配し、足を止める。むしろ早くこの時間を終わらせてくれると助かるのだから、立ち止まらないでほしい。 「本当に大丈夫ですから。さぁ、行きましょう」  そう言って彼女を誘導する俺。躾のされた犬のようについてくる彼女。  会話を再開させたのは彼女の方だった。 「あの、事件の話が気に障ったのならすみません。それでも何か思い出せそうな気がするんです。もしかしたら、私は事件の関係者だったのかも」 「そうは言っても、あの事件は解決しているじゃないですか。通り魔による無差別な犯行。被害者が選ばれたのは偶然だったって。犯人も捕まってます」 「……そうですよね。他に関係者がいたなんて話はないはずですし」  残念そうに彼女が言うと、瘡蓋を剥がすときのようにチクっと胸が痛んだ。  先ほどの言葉は嘘である。あの事件にはもう一人関係者がいた。  正確には目撃者が。
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