だーれだ、誰だ、誰だろう。

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「だーれだ」  いきなりのことだった。  背後から伸びてきた華奢な手が、俺の目を塞いだ。ひんやりとしていて、少しだけ心地いい。  街中がクリスマスに向けて赤と緑に染まり始める季節。夕方過ぎにフラフラと商店街を歩いている時のことである。  目の前が暗転する中、俺は推測する。地元を離れ暮らしをしている俺に話しかけるのは、おそらく同じ大学の友人くらいだろう。  親からの仕送りで生活しているためバイトはしていない。大学以外に知り合いなどいなかった。  しかしながら、上手く大学に馴染めているとは言い難い。当然だ。大学という敷地内は、自ら繋がりを求めなければ他人と関わらなくていい場所。  俺は大学に通うため親元を離れている。遊ぶためではない。そんな姿勢の俺に『だーれだ』なんて友好的な触れ合いを試みる学友などいない。  つまり、だ。簡単に言えば、心当たりがない。視界も思考も真っ暗だということである。 「……誰だ?」  俺が率直な答えを述べると、声の主は再び「だーれだ」と問いかけてきた。  わかるわけがない。  その華奢な手を優しく振り払い、背後を向くと綺麗な長い髪をマフラーに仕舞い込んだ同年代くらいの女性が立っていた。ちょうど瞬きの最中だったのか、彼女は目を開いて周囲の電飾を映した黒い瞳を見せる。  闇夜に輝くイルミネーションが目の前にあるのか、と錯覚してしまうほどだった。  素直に綺麗だと感じるが、すぐさまそんな光景など消し飛ぶ。彼女の言葉によって。 「えっと、誰だろう?」  何を言っているんだろうか。  その時の俺は、明らかに訝しげな表情を浮かべていたと思う。感情が思考を通らず言葉として喉から出ていった。 「は?」  素っ頓狂な声と言葉だ。自分でも無様に思う。  思考が追いつかない中、彼女はさらに言葉を続けた。 「私は誰なんでしょう」 「いったい何を言っているんですか?」  問いかけてみる。  すると彼女は暖かそうなコートを自らの手で探りながら、首を傾げる。 「その、何もわかりません。私は誰なんでしょうか?」  頭が痛くなりそうだ。突然背後から『だーれだ』と問われ、俺は心当たりがなく『誰だ?』と聞き返す。すると『誰なんでしょう』と新鮮に問いかけられたのだ。  意味がわからなさすぎる。 「本当にわからないのですが、新手のナンパか勧誘ですか?」  少しでも可能性のあることを言葉にしてみた。  しかし彼女は悪意なくこう答える。 「すみません、特にタイプの顔でもないのでそれはないと思います」  無駄に恥をかいた。全くもって無意味な時間である。  俺は下唇を噛んでから顔を背けた。 「……そうですか。じゃあ俺はこれで失礼します」  そう言ってその場を離れようとすると、彼女が腕を伸ばす。そのまま俺のコートの裾を引っ張ると、一歩歩み寄ってきた。 「な、何ですか?」 「私、あなたに『だーれだ』ってしましたよね?」 「しましたね。その答えは『誰だ?』です」 「これって知り合いにしかしないことですよね。だったら知り合いなんじゃないんですか?」 「知りませんよ。俺だって初めてのケースですから、意味がわかりません」  そこで俺は妙な違和感を覚える。それもそうだ。会話が成り立っていないんだから。  彼女は『俺を知り合い』だと思い込んでいる。しかし、俺の記憶に彼女はいない。ここまでの情報だけで推測するなら、彼女の勘違いという説が濃厚だ。  知り合いだという勘違いで俺に声をかけ、別人だと気づいた彼女は恥ずかしさから意味のわからない言葉を吐いた。  けれど、一つだけその説を否定する事実がある。もしもそうだとするのなら、俺を呼び止める必要はない。さっさと立ち去らせてしまえばいいはずだ。  沈黙したまま考えていると、彼女が首を傾げる。 「あの、本当に知り合いじゃないんですか?」  その表情はどこか不安そうにも見えた。 「知り合いじゃないですよ。本当に知りません。結局、あなたは誰なんですか」 「わからないって言ってるじゃないですか」 「……何を言ってるんですか? 自分のことがわからないとでも? 記憶喪失でもあるまいし」  意味がわからなすぎて、俺は自分でも突飛だと思うようなことを口にした。  けれど彼女はすぐさま同意する。 「多分、そうです」 「は?」 「記憶喪失なんだと思います。本当に自分のことがわからないんですよ。何も思い出せないんです」 「俺に『だーれだ』をした瞬間に記憶喪失になった、とでも言うんですか?」 「……はい」  この場にしゃがみ込んで頭を抱えてもいいだろうか。  知らない女性が俺に声をかけた瞬間、記憶を失った。そんなことがあるだろうか。  雷に打たれるよりも、宝くじが当たるよりも、運命の人に出会うよりも確率が低い話である。  深刻な状況なのに、人に話せばコメディだと思われるかもしれない。  こんな状況に付き合う義務などないが、もし万が一にも、本当に彼女が記憶喪失だった場合、記憶のない女性を置き去りにした、という罪悪感が残る。
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