最後の魍魎

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「ねえ」 「何?」 「昔ってそんなに良かったの?」 「ぼくは懐古主義だから」 「本気で聞いているの」 やや低めの声に苦笑する。 「空が青かったのは話したよね」 「うん」 「白い雲が浮かんでいて、それを見ると心がわくわくしたんだ」 「雲か。本の中でしか知らないなぁ」 「空気も今より全然臭くなくて」 「ゴミの臭いじゃないの?」 「そう。どんな匂いか聞かれたら、答えられないけどね」   市内放送がまた流れている。 地震も続いている。 地球に残った人間は少なかった。 当たり前と言えば、当たり前なんだけど。 彼女のように身体に負荷がかかる人は、地球から離れるのも命がけだ。 医療の進歩は目覚ましいものの、どうしても今のところ治すのが難しいものもある。 散歩から帰ってきて、ベッドに横たわる彼女は、ひどく顔色が悪かった。 無理をさせすぎてしまった。 「ごめんね。つらいよね」 彼女は、少しだけ口角をあげる。 本当に少しだけ。 それが悲しかった。 改めて、ぼくにとって大切な存在なんだと認識する。 市内放送は、地球消滅が五分をきったことを伝えている。 そのままカウントダウンが始まった。 それは、地球に残ったものたちへの配慮なんだろうか。 「ずっと、聞きたいことが…あったの」 弱々しい声だ。 ぼくのやりたかったことは、結果的に彼女を苦しめてしまった。 唇を噛みしめて、目にも力を入れた。 下手したら声が震えてしまうかもしれない。 だから、発声にも注意した。 「…何?」 「…最初に会ったときに思ったの。何でこの子は…」 ーーー豆腐なんてもっているんだろう。 彼女の言葉に頭がクリアになる。 ずっと忘れていた自分の名前。 豆腐小僧だ。 お盆に豆腐を乗せて、人間について回っていた。 一見、美味しそうに見える豆腐も食べれば、全身にカビが生える代物だ。 本当に人間に依存した妖怪だな。 彼女に救われた雨の日、ぼくの手にはお盆も豆腐もあった。 徐々に消えていってしまったけど。 どうして忘れていたんだろう。 でも彼女がぼくを見つけてくれたから存在し続け、消えずにすんだんだ。 「ぼくの名前は豆腐小僧」 昔、彼女はぼくに名前を尋ねた。 忘れた、と言ったら彼女も自分の名前を忘れたと返した。 おかしな話だと、そのときは思った。 だけど、彼女なりの優しさだったのだとのちにわかる。 名前を知らない、ぼくに合わせてくれたんだ。 優しい優しい女の子。 消えてしまったぼくの名前。 思い出した。 「美味しい豆腐を食べさせる妖怪」 苦しそうに息をしている彼女を見て、嗚咽がもれる。 カウントダウンは二分をきっていた。 「豆腐小僧が自分の豆腐を食べたらどうなるのかな?」 痙攣し始めた彼女を救う手段など、ぼくにはなくて。 地球消滅を待つことも許されないのだろうか。 あと、たった一分じゃないか。 彼女の動きが段々と小さくなっていく。 呼吸も弱々しく小さくなっていく。 命が消える。 地球もぼくらも。 ふと、ぼくの手にお盆が現れた。 名前を思い出したからだろうか。 美味しそうな豆腐だ。 「好きだよ」 地球消滅が……。 彼女の命の消滅が……。 ぼくの声をかき消す。 ぼくは指で豆腐を一口分すくうと、そのまま口にした。 【完】
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