空色の風

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空色の風

 それからの日々は、平穏そのものだった。  珍客が現れてから今日まで早一月、セレス方面からの侵入者はぴたりと現れなくなった。  夜毎シェーナが国境に赴いても、そこにあるのは、ただただ深い闇だけだった。  どこかで何かが、じっと息を潜めているような──そんな気配もない。国境の町フォーレスの夜は、静寂そのものだった。  シェーナから報告を受けたヴァルドの要人は、シェーナにひと時の休暇を与えた。  セレスの動向は確かに気になるが、とりあえずは休めるときに休め、ということらしい。  二日前、シェーナの代わりらしき者が首都から送られて来て、その日から、おそらくは短いであろう休暇が始まった。  そういえば、休暇という休暇はここのところ全くと言っていいほど無かった。  エアルがセレスに併呑されてからというもの、ヴァルドとセレスとの間では、静かな睨み合いが続いていたのだ。ヴァルドは領地を守るために、セレスは領土を求めるがゆえに……。  ヴァルドの背後にセレスと互角の戦力を有する国、アーリアが位置しているとはいえ、アーリアの状態が少しでも揺らげば、ヴァルドとセレスの間に、いつ戦争が起こってもおかしくはなかった。  アーリアで内乱が起こりでもしたら、その機を逃さず、セレスはヴァルドもろともアーリアを攻めるだろう。アーリアも同様に、セレスの内政から目を離さない。  大国に挟まれた国、ヴァルドには、息をつく暇すら満足に与えられないのが現状だった。  だから、この休暇は本当に本当に稀なものだ。  この際、思い切り羽を伸ばそう!  ──机の中から取り出したのは、懐かしい淡い緑のリボン。  シェーナはそれで編んだ髪をゆるく結ぶと、動きやすく軽い木綿の服を重ね着し、その上に暖かいショールを羽織って、久しぶりの陽の光の中へと足を踏み出した。  十一の月のフォーレスの朝は、吹き始めた北風に負けないほどの活気に満ちていた。  地面に無造作に石を並べて作られた大通り……通称、朝市通りの両側には、食料品・衣料品・工具等、たくさんの商店が並び、看板代わりに大通りへと積み上げた鮮やかな品物たちで客を引く。 「安いよ、安いよ! 今朝限りの大セール!」 「さっき仕入れたばっかりの果物だよっ」 「首都で流行の一品、見とかなきゃソンですよ!」  右、左。  歩くそばからかかる声。  賑わう人だかり、明るい笑い声。  少しそばに戦争という危険が迫っていることを、微塵も感じさせない雰囲気が、そこにはあった。  上を見上げれば、青く澄んだ高い空。  立ち並ぶ店の間に点々と植えられた常緑樹の煌き。  ひとつひとつを味わいながら、シェーナは足を進める。知らずのうちに、顔には笑みが浮かんでいた。  どこか、店に寄っていこうかな。  ふと思った時、真横の店から声がかかった。 「ちょっとちょっと、お嬢さん」 「はい?」  振り向くと、色とりどりの果物に目を奪われる。  並べられた幾つもの木箱に、下手に触れば崩れ落ちてしまうくらい高く積み上げられた、たくさんの果物が溢れていた。  声の主は、箱に隠されてよく見えない。 「ごめんごめん、ちょっと待ってくれな」  箱を掻き分けるようにして、声の主……店主らしき人物が、シェーナの前に姿を現した。  見た感じたくましそうな、それでいて笑顔の似合う、恰幅のよい男の人だった。  以前会ったことがあるだろうか。  シェーナは少し考えたが、思い当たる節はなかった。 「足を止めちまって悪いな。……あんただろ? 一年くらい前に、フォーレスに越してきて以来ほとんど顔見せない変わり者って」  変わり者……。  そういえば、国からここへ送られてきてからは、あまり人と接さなかった。好んで接しようとしなかった、という理由もあるのだが。  加えて、夜起きて朝寝る生活が続いていたし、住んでいる場所も、皆が住みたがらない……国境側の門に近い、町外れの一軒家だ。  町の者からすれば、よく解らない怪しい奴なのかもしれない。 「え、ええ……」  とりあえず、しどろもどろに返事をすると、男の人…店主は声を上げて笑った。 「そうかそうか! いやぁ、人違いじゃなくて助かった」  よかったよかったと、一人で何度か頷いてから、店主はシェーナへと問いかける。 「お前さん、ヴァルドのもんじゃないだろ。その眼、その髪の色。ヴァルドのもんのほとんどは薄い金髪だが、お前さんのそれは栗色だ。栗色の髪っちゃー、アーリアのほうにしかおらん」  店主の眼には、嫌悪感は映っていなかった。おそらくは、純粋な好奇心なのだろうか。  シェーナは、当たり障りの無い程度に、事実をかいつまんで話そうと、口を開いた。 「──ええ。確かに私は、ヴァルドの生まれではありません……が、アーリアで育ったわけでもないんです。髪や眼の色の特徴もありますし、おそらくはアーリア地方で生まれたのだと思うんですが、実際のところ、どこで生まれたのかもよく判らないんです。……物心ついた時には、私はもう国内の、ヴァルドの都からそう遠くない所にある小さな村にいました。それからは、そこで育ったんです」  そう。  シェーナはつまる所、自分の素性も何も知らない。  でも、知らなくてもいいと思っていた。  育ててくれたシエラねえさんは、シェーナが何者でも気にしないと言っていたし、村の人たちも、見ず知らずの子供のシェーナを受け入れてくれた。  シェーナという愛称も、シエラねえさんがつけてくれたものだ。  ……ずっと、あの村で過ごすのだと思っていた。  遠い、幸福な日々を思い返し、シェーナは小さく首を振った。  息を吸い直すと、言葉を続ける。 「十二の歳まではその村にいて、それから四年間は都にいました。フォーレスのことは、都で知ったんですよ、活気のある、素敵な街だって」  ──嘘は言っていない。みんな事実だ。  もっとも、興味を持って調べたわけではなく、ヴァルドの地理や国境の町フォーレスのことをシェーナに事細かに教えたのは国軍の要人なのだが、それは黙っておいた。  一通り話し終え、ちらりと店主を見やると、彼は深く深く頷いていた。  そして何故か、涙目でシェーナの両肩をぽんぽんと叩いた。  それから、一気にまくしたてる。 「そうかいそうかい、やっぱりそうだったのかい! ……エアルがあったころはまだ良かった。けど、エアルがセレスに併呑されて、ヴァルドが完全に二国に挟まれるようになってから、都はもの凄くピリピリしてるって都のもんから聞いてたんだ。こういう商売だからね、色んな噂が入るのさ。昔なら色んな国の人がいてもおかしくなかったのに、今では純粋なヴァルド人以外は敬遠されてるって。──あんたも、都に居辛くなったんだねぇ…まったく、不憫なもんだよ。……でも! 大丈夫、ここの者たちは、あんたを敬遠なんかしないさ。ここではあんたみたいな余所者の輩より、ラシアン以南ばかりに目をかけて、フォーレスをないがしろにしてる都のほうが目の敵にされてる。だから人目なんか気にするこたぁ無い。堂々と昼間に歩いたっていいんだぜ? な?」  ──へ?  え?  は?  シェーナは目を瞬かせた。  相手の剣幕に押され、相手の言葉が切れてからもそのまま少し黙って。  少し経った後、ようやく口を開いた。 「え……っと……その、お気遣い、ありがとうございます」  どうやら、店主は少し誤解しているらしい。シェーナが容貌のために都に居辛くなり、しかし他に受け入れてくれる場所も移る場所もなく、あえて危険な国境の近くへ移ることになった……そう、思っているらしかった。  けれど、その誤解はシェーナにとってみれば好都合なものだ。  都からこちらに移ってからというもの、接する住民たちに、フォーレスに移り住んだ理由をどう説明すればいいものかと考えていたが……なるほど、この理由は使える。これなら、今までのシェーナの態度も怪しまれずにすむだろう。  シェーナは心の中で頷くと、店主に向かって言った。 「今まであんまり人目につかないようにしてきたから、昼夜が逆転しちゃって……。一度ついちゃった習性だから、なおすのに時間はかかると思うけど……うん、でも、ありがとうございます! 今度からは、機会があったらまた来させて頂きますね」  ちょうど混み合う時間帯になってしまったのだろうか、後ろにどんどん客が並んできたので、シェーナは早口にお礼を言うと、店主に手を振って場を後にした。  少し離れてから、小声で呟く。 「ありがとう、騙してるみたいで悪いけど……あなたのお陰で助かっちゃいました」  昼前になり、朝市通りの賑わいが少し収まった頃、シェーナの姿は流れ去った人波とともに消えていた。  朝市通りから遠く離れた、小高い丘。  市街地自体からも少し離れたそこは、木々の生い茂る緑地になっていた。  もう少し高ければ、小さな山とも言えるだろうか。  一番高くなっている所まで登ると、フォーレスの市街地の、色とりどりの屋根の群れが眺められる。  反対側に目をやれば、深い茂みに隠れた、遠い国境の眺め。  町外れのシェーナの家と、市街地のちょうど真ん中に位置するその広い公園は、フォーレスの人々の憩いの場になっていた。  いや──なっていたらしい。  国境付近が危険になってからは、ここには殆ど人が訪れない。 「なるほどね……」  公園の、一番高いところ。  そこに生えている木々の一本。  その太い枝の上に、シェーナはいた。  街中や市場を、一通り満喫した後、人々との会話の中で得られた情報を反芻するために、静かなこの場所を訪れたのだ。 「ここでは、都は憎まれものか……。まぁ……私としては……やりやすいけど……」  ヴァルドの都は、フォーレスを見捨てているわけではない。  むしろ、重要視しているのだろう。  けれど──いや、だからこそ、と言うべきか。表面上はそれを表すことができない。  フォーレスに国からの守備軍を送れば、セレスを警戒していることが相手側にありありと伝わってしまう。  フォーレス・アーリア・セレス間の不可侵協定が辛うじて守られている今、大きく動くことは、あってはならないことだった。  ヴァルドは、協定がある限りフォーレスは安全だと言ってフォーレスの民を納得させようとしているが、国々の情勢の噂というのはどこからでも舞い込んで来るものだ。  フォーレスの民は、日常生活を送りながら、隣にある不安に脅えている。そして、いざという時に自分たちを守ることを確約しないヴァルドに、明らかな不審の目を向けていた。  実際、ヴァルドは都からフォーレスへの路を断ってもいなければ、物資の輸送もしており、しかもそれは過剰なほどで、フォーレスの朝市はいつも豊かなのだが、そのこともフォーレスの民の不安をかきたてているらしい。  物資を送って信用させておいて、戦争になったら一番に見捨てるつもりだろう、と。  シェーナは、ここに送られてくる時に言われた言葉を思い出していた。 「フォーレスは要だ。動きを悟られずに、だが確実に、フォーレスを守れ」  軍の要人の、重い一言。  それを思い返し──シェーナは、小さく溜息をついた。 「……問題は、フォーレスの民の国への不審が、セレスの諜報員に利用されないかどうか……だよなぁ……」 「……その心配なら、いらないと思うよ」  ──声がした。  透き通るような、真っ直ぐな声だった。  声は、下から響いていた。  見下ろすと、一人の人間と目が合った。 「……」  思わず、口に出す。  その者の髪は、空を映したような淡い蒼。  蒼が、時折風を受け、水のように流れる。  瞳は、淡くも深い緑。  生い茂る木々を、そのまま映したかのような。 「セレスの色……」  呟くと、その人間は目を細め、こちらを見上げてにっこりと微笑んだ。 「面白い人ですね、みんな、この容姿を怖がるのに……シェーナさん、あなたは」  ──!!  名前を呼ばれて、シェーナははっと息を飲んだ。  もう一度、その人物をよく見下ろしてみる。  空色の髪、緑の瞳。  その口許には、異様に無邪気な微笑み── 「あなたは……一月前の……!」 「ええ、そうです、アズロです。覚えてくれてたんだね、ありがとう」  その人間は、アズロはあっさりと肯くと、少し何かを考えたようなそぶりを見せてから、遠慮しがちに言った。  ぽりぽりと、左手で頭をかきながら。 「それと、あのぅ……そろそろ下りてきたほうがいいと思うんだ。この間も言ったけど、僕は何もしないし……木の上で警戒しなくても……その……風も出てきたし……この位置からだと……ねぇ?」  シェーナは少し考えて、それから自分の衣服を、主に、風になびくスカートを見て、そして。  叫んだ。 「わかった下りる! 下りるから、見るな! 見なくていいっ! ちなみに、飛び降りる瞬間も見るなっ!!!」  ──長くも短くもない空色の髪、淡く、深く揺れる緑の瞳。  加えて、透き通るように白い肌。  普段着なのだろうか、十一の月にしては寒そうな軽い布の服からのぞくのは、力を加えれば折れてしまいそうな、細い腕。  闇の中だったのと、その時の分厚い服とで判らなかったが、陽の光の中で見ると、アズロはとても華奢だった。  おそらくは男性なのだろうが、微笑んだ顔は女性のようにも見える。  今日も、アズロから敵意は全く感じられない。  意を決したシェーナは、警戒心を置き去りにして、アズロへと一歩、近づいた。  この細い体のどこに、シェーナを押さえつけた凄まじい力が眠っているのだろう。  それに、あの力。  空を飛ぶ力。  あんな力を持つ者がいるなんて、聞いたことがない。  一歩、また一歩。  シェーナとアズロの間の距離が一メートルほどになった時、アズロはゆっくりと口を開いた。  微笑みに、緑の瞳が細められる。 「あの時は、急ぎ足になっちゃったから、改めて。……僕は、アズロ」  どこまでも、穏やかな声だった。  陽の光にさらされることで、自らの容姿を相手に知られることを全く意に介していないような、ごくごく自然な態度。  発せられる言葉に、偵察員特有の動揺や偽りの響きは感じられない。  名乗った名前も、本当に本名のようにすら思えてしまう。  かといって、素性が知れても不利にならないほど、自信があるようにも思えない。  それなら何故、わざわざ相手に自分の情報を提示し、不利になるような行動をとるのか……。  シェーナが怪訝な顔でちらりとアズロの表情を窺うと、微笑んだアズロの眼が一瞬、驚いたように開かれる。  その後で、アズロは口許に手を運び、小さく笑った。 「あなたの思った通り、僕はセレスに属する人間です。でも、心はどこにでもあって──つまり、あなたに何かしようって気はないので、安心してください。あの時も言ったけど──そう、話をしてみたかったんだ」 「話?」  シェーナが驚いたように問うと、アズロは頷いた。 「うん。何でもいいんだ、何か、話ができたらいいなぁって。……だめですか? ヴァルドの民は、他国の人間と口をきいちゃだめだって教わってるのかな? ……それとも、僕がいずれは敵国になるであろうセレスの民だから? 敵国の人間は、みんな敵だとでも?」  話しながら、アズロはじいっとシェーナの瞳を見つめる。  請うようなその眼差しは、シェーナの心の奥を揺らした。  声も態度も全く違うのに、アズロの纏う雰囲気はどこか、シェーナの育ての親、シエラに似たものがあった。 「う……いや、そんなことはないけど……」  思わず、シェーナが小さく答えると、アズロはまるで子供のように目をキラキラと輝かせて、シェーナの両手をとり、踊るようにくるりと一回転した。  つられてシェーナの体も回ってしまう。  頬を赤く染めたアズロのその表情は、本当に嬉しいのだと物語っていた。  しまった。  答え方を間違った……。  シェーナは後悔したが、もう遅いらしかった。 「やった! じゃあ、これからよろしく、シェーナさん! 僕のことはアズロでいいよ。──あ、大丈夫大丈夫、国のほうにはばれないように上手くやるからさ。心配ないないっ」  アズロは半ば強引に話をまとめると、シェーナと繋いだ両手をぶんぶんと振った。  そしてそのまま力を込めると、シェーナもろとも宙へ舞う。  一メートル、二メートル、三、四、五メートル。  二人の体は、徐々に高く、空へと昇っていった。  視界が──変わる。  公園の緑は遠くなり、青く蒼い、広大な世界へと── 「わっ、わわわっ」  慌てるシェーナの手をしっかりと握りながら、アズロは言った。 「話し相手になってくれた記念に、プレゼントだよ。ここから見える景色は、とても綺麗なんだ。……大丈夫、僕の手を離さなければ、落ちることはないから。誰も見てないし……この高さくらいなら、まだ息もできるでしょ?」  地上千メートルほどの所まで辿り着くと、アズロは昇るのを止めた。  眼下には、小さくなったフォーレスと──  普段見ることのできない、セレネの昼の姿。  そして、小さな小さな──国境。  緑と青と茶の織り成す、世界の色。  シェーナは知らず、溜息をついた。  失意でもなく、呆れでもない。  純粋な、感嘆の溜息。 「……すごい……小さくて、大きくて、広くて……繋がっている……」  隣を見ると、微笑むアズロと目が合った。 「……二人目なんだ。これを見せたの」  アズロはセレネの方角の、セレネよりもずっと北を見つめながら話す。 「一人目は、君と全く異なることを言ったよ。そして僕の感じたことも、二人とは違う。そうだよね。人によって、感想なんてきっとバラバラさ。……最近思うんだ。風景は、見る人の心を映すのかもしれない、ってね」  何かを、悔いているような表情だった。  緑の瞳に映るのは、遠い空と、微かな悲しみの色──。  シェーナはふと、呟いた。 「その一人目は、セレスにいるの……?」  問いに答えたのは、沈黙。  口数の多いアズロはしかし、口を一文字に結んでいた。  きつく結んだその唇から、溜息とともに言葉が吐き出されたのは、無音の時間が三分ほど経った後だった。 「……いつだって、気付いた時には遅いんだ。……遅いと、思っていた。……でも。──さ、そろそろ降りよう。慣れないと、上空は辛いからね」
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