第三章 水面に零れた一滴は

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第三章 水面に零れた一滴は

第三章.水面に零れた一滴は 〜1.幻想の花〜  風が、そよぐ。  北から吹いてきたその風は、どこか物悲しく、どこか温かく。  街外れの丘の公園の一番高いところの、一番高い樹の枝に腰掛け、眼下の街を見下ろしていたシェーナは、涼やかなその風を受けながら遥か遠い空を想った。  枝からさらに上へとに登り、立ち上がり、空へと手を伸ばしてみる。  街から見上げるよりはぐんと近づいているはずなのに、頭上に揺れる空の蒼は、遠く、遠い。  ──ふわりと、果てしない蒼に、白い花が咲いた。  シェーナは思わず眼をこする。  自分の想像にしては、出来過ぎている映像だ。  けれど透明なそれは、何度眼をこすっても、蒼い空に咲いていた。  花は、次第に人を形作って……  凪のような、シエラねえさんの幻を描く。  ねえさんがふわりとした微笑みを浮かべたと思うと、今度はねえさんが、別の何かへと変わっていく。  澄んだ空色の髪と、同色の瞳を持つ少女が、そこにいた。  シエラねえさんの微笑みと、どこか似た微笑みをするその少女は、にっこりと笑って眼を閉じる。  あたたかな、やわらかい、花のような素朴な笑顔だった。  白い花の幻は、そこで一瞬途絶えたかのように見えた。  しかし、眼を凝らしていると、空の奥から再び何かが展開してくる。  それは、激しい雨だった。  本物かと思って額に手を運ぶが、雫は皮膚に届く前に透き通って消えてしまう。 「これは……?」  シェーナが声に出したその瞬間、両耳に慟哭のようなものが響く。  空を引き裂くような、鋭く怖ろしく、それでいて痛切な、激しい叫び。  叫びは両耳に木霊して、シェーナの胸の内へと沈んでいった。  辺りを見回しても、やはりそこにあるのは、ここ数日全く変わりのない、穏やかなフォーレスの公園の姿だった。  やわらかな日差しが木々を照らし、木漏れ日が丘に揺れる。 「え? あれ?」  いくつもの不思議に首をかしげていると、頭上の豪雨の幻は、やがて虹の空を描き出した。  先ほどの少女が再び現れて、今度は、切ないような、哀しげな笑顔を浮かべる。  少女が消え、今度はシエラねえさんが現れ──  最初の展開の逆を辿る形で、幻は進んだ。  幻は──最初の白い花へと戻り、蕾になって、少しずつ、少しずつ透けていった。  放心したようにぼうっと眺めていると、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、一人の人物が、情景が現れて、そして、消えた。 「え? え? 今の、誰?」  瞳に一瞬だけ浮かんだのは、今まで会ったことの全くない人物だった。  白く長い衣を纏い、長く淡い藤色の髪を、冷たそうな床にたらしている。  その人物は、ふと顔を上げて──  そこで──何もかもが消えた。  幻も、あの声も、全てが嘘だったかのように、木々のさざ波のようなざわめきが、心地よく耳に響いている。  瞳に映るのは、深い緑と淡い緑と、空の蒼と土の茶と、並べられた石でできた小道の灰色で。  息吹の織り成す、色付く世界。 「うーん……幻っぽくない幻だったなぁ」  シェーナは額に手をやって、軽い溜息をついた。 「休暇ボケ、か……? 昔はよく変なものを視たけど……最近は全然視なかったのにな……」  ふと、あることを思って、それから頭を振る。  ……まさか、ね。  あの慟哭……どこかで聞いたことのあるような声みたいな気がしたけど……。  いやいや、有り得ないな。  うん、それは絶対有り得ない。  「──あの変人、最近来ないなぁ」  空色の髪と緑の瞳を持つ一人の人物を思って、シェーナは苦笑した。  会う約束を一方的に、勝手にとりつけてきたあの妙な輩は、あれから度々ここに来て、他愛もない話をしては瞬く間に帰って行った。  休暇が出るまでは、忙しいんだとか言っていたっけ。  どうしようもないな、とは思う。  相手は見ず知らずの輩だ。しかも、言葉の端々から、敵国の……それなりの地位にある者と見当がつく。そんな輩に、少なからず興味を感じてしまっている自分がいる。  自称「怪しいやつでも何でもないごくごく普通のセレス人」には、いい意味でも悪い意味でもなく……ただ、何か──何かを思い起こさせるような、そんな不思議な引力があった。相手の偵察も兼ねて──様子を見てみるか。シェーナはそう自身に言い聞かせて、アズロと接し続けていた。  いるとやたらとうるさいが、いなければいないで静かで仕方ない。  会う前は、こんな感じだったかな……  シェーナは顎に手をやると、ぽんと両手を叩いた。 「そうだ、久しぶりにラシアンに行ってみよう」  休暇中は、ある程度は移動にも自由がある。フォーレスからそう遠くないラシアンなら、許可も下りるだろう。  なかなか無い……珍しく長い休暇だ。久しぶりに、どこかへ出向いてみるのもいいかもしれない。いつどこにいるかは解らないからね、と、アズロに念押しもしてある。そっちもまぁ、大丈夫だろう。  何度か頷いて、シェーナは丘を駆け下りた。 「ううむ……解せない」  シェーナは眉間に皺を寄せて呟いた。  許可は下りた。  いとも簡単に……あっさりと、すんなりと。  フォーレで過ごすなら問題ないが、軍が守りを布いているラシアンに入るのは、そこで自由に動くのは、ある程度は難しくなると思っていた。  別に監視がついたっていい。  許可さえ下りればいい。  久しぶりにラシアンの広大な町並みを味わえればそれで……と思っていたのだが。  ヴァルド軍部の要人は、シェーナに、この休暇を今後も長くすることができそうなことと、休暇中は申請さえすれば、ヴァルド内ならどこでも移動していい……ということを告げ、今までに全く無かった寛大な姿勢を示した。  申請さえすれば、監視なしでも色々なところを歩き回っていいらしい。 『今回の休暇は長くなるだろうから、必要なものがあれば買い揃えておくといいだろう』  シェーナの肩を叩いてそう言ったその人物は、普段見せることのない、清々しい微笑みを浮かべて去っていった。  励ますような口調で、一言を残して。 『おまえたちはヴァルドの希望で、要だ。しかし……国を守るためとはいえ、束縛してしまって悪いと思っている……。せめて長く休める時くらいは、自由にするといい。国のことなど考えず、羽を伸ばせ』  言葉を受けたシェーナは、無言でその人物を見送った。ただ、頭だけを深く下げる。  その時のシェーナの表情に、笑みはなかった。 「……必要なものは揃えておけと言っていたな……。休暇も長くなると……どういうことだ……?」  歩きながら、シェーナは呟く。  フォーレスからラシアンへの街道には、ちらほらと人が見えるものの、それは行商人か商品の運搬か、ヴァルド軍部の兵かのいずれかである。一般の民衆の姿は、ごく稀にしか見られない。  以前は活気のあった主要街道は、今は当時の雰囲気さえ残していなかった。  綺麗に整っているのは街道の道そのものだけで、歩く人の顔には、どこか暗さがあった。笑っていても、一抹の不安が場の空気を濁してしまう。たまに聞こえてくる人々の会話は、陽気な響きというよりは空元気に思えた。 「……あの最後の言葉は……真に受けないほうがよさそうだな……」  シェーナは苦笑いすると、改めて正面を見据えた。  考えながら歩いてきたせいか、遠くに、かすかにラシアンの城壁が見える所まで来ていた。  フォーレスからラシアンまでは、人の足で歩くと丸一日かかる。しかし、出立が遅かったせいか、もう日暮れになってしまった。もう少しで、辺りは完全に闇に包まれるだろう。周りを歩く者たちも、各々街道脇にテントを張ったりしつつ、就寝に備えている。  シェーナはゆっくりと、人目につかないように物陰の暗さに紛れながら、街道から遠ざかっていった。  街道から離れてしまえば、そこは闇だ。  辺りを照らす灯も、何も無い漆黒の闇。  幸い、今日は夜空を照らす遠い星……月は出ていない。  シェーナは辺りを見回して頷くと、音も無く駆け出した。  風の力を借りて、空を切るように走り進む。  瞬く間にラシアンの近くへと辿り着くと、再びゆっくりと街道へ近づいて──  ラシアンの門番に何かを話すと、微かに開けられた重厚な扉から、そっと、闇に眠るラシアンの街へと消えていった。
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