鉛筆

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鉛筆

 カリカリと、紙に鉛筆で書く音が好きだ。漢字、英単語、数式、化学式。内容は何でもいい。ただその音を聞くために、鉛筆で書く。その習慣を小学生の頃から続けていたら、いつの間にか理数科に入っていた。 鉛筆はその頑張りを可視化できるのが良い。書いた分だけ先は丸くなる。丸くなった書いた面の先をみると、力を加えた面の斜面が、光沢をもって鋭利に輝く。その斜面に少しためらいながら、手動の鉛筆削りでゴリゴリと削り上げる。その音もまた良い。 頑張って作り上げた斜面は、0に戻り、また尖りきった鉛筆の姿に戻る。削った削りカスが少しずつ増えるさまも、少しだけ短くなった鉛筆も、私の頑張りが目ではっきりと見えるようで嬉しい。そうして小さくなり、これ以上削れない長さになった時、私はその小さくなり使えなくなった鉛筆を小瓶の中に入れる。小学生の頃から、かれこれ続けていると、丸い小瓶に詰め込まれた鉛筆たちは、剣山のようだ。同じ長さに揃えられ、ギュウギュウに敷き詰められたその姿を見ると、うっとりとする。そのコレクションは、ゆっくりと、テストの時には急に、着実に増えていく。そのコレクションを増やすためにのみ鍛えられた私の手は、女子高生でありながら、握力が40近くになっていた。  そんな鉛筆をこよなく愛する私だが、つい先日小学生に授業をする機会があった。驚くべきことに小学生は、小学生でありながらスマートフォンを巧みに使いこなし、iPadでメモを取り、文字を書く時にはシャープペンシルを使っていた。  私は、その光景に圧倒された。私の通っていた小学校は、かなり山間部にあり、その授業を行った小学校とは、似ても似つかなかったが、少なくとも私は小学生の頃に、シャープペンシルに触った記憶がない。  中学生になってやっと、シャープペンシルを使いだした。しかしまだ、教室には電動の鉛筆削りがあったし、授業も鉛筆でノートをとっていた記憶しかない。強いて言うなら、テストのとき、鉛筆を落としてしまった時のための予備の予備の予備くらいに、シャープペンシルを机に置いていたが、それを使うことなどなかった。そんな私の記憶とは相まって、今どきの小学生はシャープペンシルを当たり前に使っている。もしくは、シャープペンシルさえ、古のものとなり、彼らはアップルペンシルなる次世代の鉛筆をも、当然かのごとく使いこなしているのだ。  高校の教室では、鉛筆削りがなくなり、鉛筆愛用者も私くらいのものとなった。皆、削る必要などない便利なシャープペンシルを手にしている。私は、よく疑問に思う。シャープペンシルで書いた言葉を本当に覚えることができるのだろうか?鉛筆と違い、シャープペンシルは筆圧を加えなくてもサラリと文字が書けてしまう。逆に言えば、私のように日頃から鉛筆を使うものは、シャープペンシルの芯が折れて困る。そんな力を込めず軽くサラリと書く言葉で学習を進めることが、もしかすると昨今叫ばれている若年層の学力低下に影響を及ぼしているのかもしれない。  最近、文房具屋に行っても、シャープペンシルばかりが目に留まり、鉛筆売り場を探すことがしばしばある。  かつて日本において、文字を書くものは筆であったように、鉛筆もまた、かつて使われていた道具とされるのかもしれない。その瞬間を見届けるまで、私は鉛筆を使い続けたい。今も私は鉛筆を使いこのエッセイを書いているのだから。
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