序章

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序章

 深い竹藪を抜けた先に、ひっそりとした原風景の広がる集落がある。山間にあるこの里は行き着くまでが遠く、住民は数少ない。農民たちの住むそれぞれの屋敷の周辺には田畑があり、その奥には、墓所やもう壊れた神社がある。  他の多くの村と同様、この村も地方三役を中心に百姓が自治的に運営しており、小さな村だが、皆互いに協力しながら暮らしていた。  今年十八歳になる一石小珠(いっせきこたま)はこの村に住む専業農家だ。親がいないという理由で少し浮いている。年貢・諸役がかなりの負担ではあるが、共に住む祖母を支えるため、必死に農業を営み生計を立てていた。  ◆  青く澄み渡る晴れた空から、ぱらぱらと小雨が降る日のこと。  その日、里では小さな祭りが行われる予定だった。消えつつある人の少ない集落で、唯一残された一年に一度の祭り――瑞狐(ずいこ)祭りという、里の豊作を祈る祭りだ。農作物の物々交換を頼りに生活しているこの里では重要な祭りである。  しかし、こう雨が続いては今年は中止だろう。今日だって日が照っているのに雨が降っている。狐の嫁入りだ。 「おばあちゃん、今年はお祭りやらないかも」  空の様子をじっと見ていた小珠は古びた戸を閉め、囲炉裏のそばに横たわっている祖母――キヨを振り返った。ここ数年で足腰が弱り、生きがいだった散歩もできなくなったことで急速に元気を失っていったキヨからの返事はない。この様子ではどのみち今年は一緒に行けなかったであろうが、キヨとの思い出が詰まった祭り自体が中止であるというのは小珠としても悲しかった。  小珠の両親は、キヨが言うには、小珠の物心がつく前に小珠を置いて何処かへ行ってしまったらしく、小珠にとっての家族は実質キヨだけのようなものである。  幼い頃からキヨとこの集落で過ごした小珠は、一年に一度の祭りに毎年キヨと出向いていた。汁粉屋や天麩羅屋、蕎麦屋、唐辛子屋、大道芸が懐かしい。しかし三年前、小珠が十五歳になる頃に、キヨはうまく歩けなくなってしまった。  それからは、小珠は積極的に洗濯や炊事など家のことを手伝い、畑仕事も完全に引き受け、何とか生計を立てていた。農作物を集落にいる他の住民に売りつけることもした。 「あの家のおばあさん、ついに元気がなくなってきたそうよ」 「狐の子なんて預かるからでしょう。不吉な」  ――〝狐の子〟。集落にいる百姓たちは、時折小珠をそう呼んだ。親のいない子はそう呼ばれるらしい。  この集落の山の向こうには〝きつね町〟という妖怪の住む町があり、まれに妖怪が子どもを近くの村に預けに来るという言い伝えがある。そのため、親のいない小珠は妖怪の子として噂されていた。  〝きつね町〟は、妖狐が統治しているから〝きつね町〟らしい。妖怪の存在は昔からキヨから教えられてきたが、小珠は未だ妖怪を見たことがないため半信半疑だ。そもそも妖怪は、人間が住む場所を拡張したせいで大昔に皆きつね町へ逃げ込んだと聞く。今更人里へやってくることなどなく、実在するのかさえ怪しかった。  いつものように近くの百姓に自分が育てた野菜や果物、米を提供し、代わりの物を受け取ってからすぐにキヨの待つ家屋に帰った。  一日のほとんどの時間を寝て過ごすようになったキヨの体を支えて起こし、軽く潰した食べ物を何とか口に含ませる。キヨはその後すぐにまた眠ってしまった。小珠はじっとその寝顔を見つめた。  キヨはきっともう、長くない。
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