序章

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 キヨがぐっすりと眠っているのを確認した後、雨の中もう一度外へ出た。ぱしゃりぱしゃりと薄く水を張った地面の上を踏み、歩いていく。  例年瑞狐(ずいこ)祭りが開催されていたのは、小珠の家から歩いて十分、とある神社の分祀があったと記されている場所だ。大昔の戦で本殿が燃やされたようだがその跡は残っている。朽ち果てた木材と苔むした石垣。周囲を囲む厳かな木々が密集しており太陽の光がほとんど届かず暗く、薄気味悪い雰囲気が漂っている。この場所が灯りで照らされるのは一年に一度の瑞狐祭りの日のみだ。  奥には古びた絵馬やお守りが散乱した状態で放置されたまま。絵馬に書かれた文字は剥がれ落ち、願い事が見えづらくなっている。小珠は屈んでその絵馬の一つを手に取った。 (ここも随分寂れちゃったな……)  小珠が幼い頃であれば、この神社はまだ管理されていた。しかし、いつしか見捨てられたようだ。集落の人口は急速に減る一方である。長年人口増減を記録している名主も嘆いていた。  小珠は、手を合わせ本殿の跡地に向かってせめてもの祈りを捧げる。 (おばあちゃんの調子が少しでも良くなりますように。健康で長生きしますように)  目を瞑ってそう何度も願った後、立ち上がって空を見上げた。風が吹くたびに木々のざわめきが聞こえる。そのざわめきは、小珠にある思い出を想起させた。  幼い頃一度だけ、祭りでキヨとはぐれたことがあった。確か、本殿の裏側に回り、暗い暗い林の中へ入っていってしまったのだ。本殿の裏は出店が出ている場所とは反対方向で、向かえば向かうほどどんどん暗くなっていった。道の分からない小珠は途中で泣きながら座り込んだ。  ――その時、ある光が幼い小珠の元へ現れた。その人は月白色の髪と琥珀色の瞳をした、上質な着物を身に纏った男性だった。小珠には彼が光り輝いて見えた。彼は小珠よりもかなり身長が高く、顔の作りまでははっきりとは見えなかったが、泣き続ける小珠の手を握り、祭りの中心部まで連れて行ってくれた。  神社の裏の林。あの頃は怖くて仕方がなかったが、十八歳となった今となればそうは感じない。小珠は何だか懐かしくなり、その林の中へと進んでいった。 (あの人と会ったのは、この辺りだっけ……)  思い出の場所を探しながら歩き続けていたその時、後ろから軽快な音楽が聞こえてきた。空気感が変わった気がして振り返る。  すると――道の両端に、音もなく土下座している人々がいた。  同じようなお面を付けた同じような背丈の人々が、全く同じ白い着物を着て、綺麗な角度で土下座している。  その不気味さに思わず固まってしまった小珠に向かって、正面からゆっくりと近付いてくる背の高い男性がいた。年は見たところ二十代後半の、琥珀色の瞳をした、着物の似合う男。  そう、ちょうど、あの幼い日に出会った男の人のような――。 「迎えに上がりました。小珠様」  紅の傘を上げて小珠にそう微笑みかけてくるその男性は、酷く端正な顔立ちをしていた。  彼らの後ろから、真っ白な牛二頭が引く立派な牛車が近付いてくる。  瑞狐祭りは雨天中止のはずだったが、何らかの見世物は行う予定なのだろうか。小珠は驚き慌て、道の端に寄った。しかし、美しい男性はその琥珀色の瞳で不思議そうに小珠を見つめ、軽く首を傾げる。 「小珠様、ですよね? 僕が間違うはずがないのですが」 「小珠ではあります……」  男のあまりの美しさに動揺し、肯定する声がものすごく小さいものになってしまった。  村にこのような若い男は滅多にいない。そのうえこの美貌、いるとしたらすぐに有名になり噂になっているはずだ。おそらくよそ者だろう。  男がゆるりと口角を上げた。 「僕は空狐(くうこ)と申します。山を越えた先にある、きつね町というところから貴女を迎えに来ました」  〝きつね町〟。妖狐が統治しているという、妖怪の町の名だ。作り話か現実の話か、半信半疑で聞いていたあの言い伝えが、目の前にいる美しい男のせいで現実味を帯びてきた。 「私に何の御用で……?」  おそるおそる聞いてみた。目の前の彼らがあのきつね町から来たというのが本当だとしても、何故自分に会いに来たのか分からない。  空狐と名乗った男は、小珠の問いに優しい声音で答えた。 「貴女には、我ら一族の長、天狐(てんこ)様と結婚して頂きます」
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