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麗都が和久田から早漏野郎(もはや伏せ字も面倒)についての調査報告書を受け取った翌日の、23時20分過ぎ。 祈里は繁華街の道を一心に走っていた。黒いオーバーサイズのTシャツとゆるっとしたデニムパンツが、華奢な体を際立たせている。 すれ違う通行人達に、半乾きの髪から仄かなフローラルの香りを振り撒いては二度見される祈里の姿には、蒸し暑い無風の夜の不快さをひと時忘れさせるほどの清涼感があった。 まあ実際は、ラブホを出る前にシャワーついでに髪も洗って、乾かす時間的余裕までは無いままチェックアウトして、客を見送ってすぐに走っているというだけなのだが。 昨夜は2人目でロングの客が付いた為、天馬のところに行けなかった。泊まり仕事が入った時はその旨をちゃんと連絡しているから天馬を裏口で待ちぼうけさせる事は無い。だが翌日は前日分も今日の売り上げと一緒に持って行く事になるから、そうすると祈里は20万以上の大金を持ち歩かねばならない為、緊張してしまう。落としたりしない内に早く天馬に渡してしまいたい。デニムパンツのピスポケットを時々手で確認しながら走っていると、天馬の勤める店が見えて来た。ろくに風も無い蒸し暑い中を走った所為で、若干息が上がり、額に汗が滲む。 今日は、いつも帰り際にダラダラごねるお客が最後の客だったので多少覚悟はしていたのだが、本当にホテルを出てから10分も執拗くされるとは思わなかった。最終目的の筈のセックスを済ませているのに、更にその先の何かを求めて来るお客にウンザリして、何度宇高名刺を召喚してしまおうかと思った事か。 『お腹空いたんじゃない?良い店あるからご馳走するよ』『今日こそスマホの番号教えてよ』『こんな仕事やめて僕とつきあおうよ』 初回から続いているそんな口説きに、毎度丁寧に『ごめんなさい』と断っている。お客と事を荒立てたくなくてそうして来たけれど、そろそろ鬱陶しくなってきた。宇高に言えば迷惑行為はおさまるだろうか。そもそも、お客に個人情報を聞かれても答えるなと言ったのは宇高なのだし。 そんな事を考えつつ、祈里はY’stの裏口に続く路地に入った。 「あ、天馬…」 「おっせえじゃん」 「ごめん、待たせちゃった?」 「5分以上待ったわ」 裏口ドアの横に、不機嫌そうな顔でベイプを咥えた天馬が外壁にもたれて立っていた。いつもは祈里を10分20分平気で待たせ謝りもしないくせにこの言い草。勤務時間中に抜けて来ているという焦りもあるのだろうが、それにしても態度が悪い。しかし、祈里が財布から札を抜き出して差し出すとその表情も一変した。 「悪いな。…さっすが祈里!」 札を22枚と数え終わった天馬はとびっきりの笑顔になり、それを無造作に胸ポケットにしまってから祈里を抱きしめた。汗と香水の混ざった天馬の体臭。そこにいくつもの女物の香水の香りが纏わりついた複雑なにおいに、気づかれないように顔を顰める祈里。毎日のように嗅がされて慣れているとはいえ、臭いものは臭い。そして抱きしめられた後に来るのは、決まってキスだ。酒臭い息を吐く唇が無遠慮に押し当てられて、やっぱり酒臭い舌で口内をまさぐられる。 前にも記した通り、そういうキスが苦手な祈里にはちょっとした罰ゲームだ。しかし、やめてとも言えないのは、天馬が客ではなく恋人だから。本来、恋人とのキスは嬉しいものである筈で、拒否なんかするのは失礼だ…と、祈里は思い込んでいる訳だ。まあ、恋愛偏差値10なので仕方ない。それに外だとごく短く終わってくれるので、部屋でねっとりやられるよりずっとマシだった。因みに天馬は、祈里がこの仕事を始めてからは日曜にも部屋に来なくなった。 『毎日慣れない仕事、お疲れ。日曜くらいはゆっくり体休めてくれな』 と言われたので、きっと自分への優しさと気遣いなのだろうと思っている祈里は、その日曜に天馬が他の女とデートしてよろしくやっている事など知らない。そのデート中に、女の我儘で自分が稼いだ金がブランドバッグや靴、アクセサリーに化けている事など、更に知る由もない。 天馬のキスは30秒ほど続いて、離れた。 「俺、祈里みたいな恋人が居てラッキーだわ。いつもありがとな」 「…うん」 (…ラッキー?幸せとかじゃなく?) 天馬の物言いにすこ~し引っかかった祈里だったが、彼のデリカシーの無い発言は今に始まった事ではないので気にせず流す事にした。どうせ突っ込んでも悪気はないと言われるだけだ。それに、せっかく機嫌が戻ってくれたのだから。 「じゃ、戻るな。気をつけて帰れよ」 そう言って、天馬は店内に戻る為に裏口のドアノブに手を掛けた。しかし祈里はそんな天馬のシャツの袖を引っ張って引き留める。 「…なに?」 訝しげな表情で振り返った天馬に、祈里は聞いた。 「1ヶ月経ったけど、だいぶ減ったよね?」 だいぶ減ったよねとは、勿論天馬の背負ったという売り掛け300万円の事だ。この1ヶ月、売り上げを渡しに来る時だけが天馬に会う時間になっていて、あの後の進捗など殆ど聞けなかった。多額の売り掛けを残して逃げた客の捜索状況はどうなっているのだろうか。 その質問は、文字通り体を張って協力している祈里としては当然の疑問だ。だが問われた天馬は、それに苦々しい顔をした。 「…いや、まだだ。色々聞いて回ってはいるんだけど」 「まだかあ…。でも、結構減ったよね?」 「うん、まあ…」 「だよね!良かった」 天馬の頷き方は歯切れが悪かったのだが、肯定をそのまま受け止めた祈里は安心した。この1ヶ月、自分は本当に頑張ったと祈里は思う。いきなり1日何人もの男の相手をしなきゃならなくなって、仕事である以上、自分からは相手を選べない。太ったオヤジや不細工だったり臭かったり、色んな人間が祈里を買った。 最初の1週間は、何をしていてもあの漂白剤のような独特の匂いが漂ってきて、自分の体中に客達の精液の匂いが染み付いているような気がしていた。思っていたよりすぐにそれに慣れる事が出来たのは、祈里の過去の経験がどうというより、自分がどれくらいのペースで稼げるかがわかった事で、この生活は2ヶ月~2ヶ月半くらいで終わると思えたからだ。終わりさえ見えていれば、我慢出来ない事はない。つまり、割り切りだ。ただ、願わくばさっさと天馬が客を見つけてくれて、早くこの仕事から解放されたいと思うのには変わりないのだが。 でも、着実に減っていると確認出来た事で、祈里の気持ちは格段に軽くなった。 「じゃ、帰るね!天馬も仕事、がんばって!」 そう言って天馬に手を振りながら駆け出す。急がないと終電ギリギリになってしまう。明日も夕方から仕事だし、一刻も早く帰ってベッドに潜り込んで眠りたかった。 そんな祈里に注がれる、2組の視線。 「対象、現在〇〇駅方面へ向かっています」 『了解、こちら〇〇駅で待機中。後は引き継ぐ』 一定の距離を保ちながら尾行いてくる人影同士の間でそんな遣り取りがされているとも知らず、祈里は未だ人の絶えない深夜の繁華街の中を駅に向かって駆けた。
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