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③
顔中にちゅっちゅとキスの雨を降らせ続ける天馬。だがこのままでは話が進まないと思った祈里は、なんとか彼を引き剥がして座り直させた。さっきはうっかり安請け合いしてしまったけれど、だからといって出来る事と出来ない事がある。ちゃんと話を聞かなければ。一体、一介の大学生でしかない祈里に、天馬は何を助けて欲しいのだろうか。
一抹の不安が胸を過ぎる。
祈里の質問に天馬の顔からはまた笑顔が消えて、はーっと溜息を吐く。そして、苦々しい表情になって、シャツの胸ポケットからメタリックに黒光りする筒状の何かを取り出し、少し指で押さえてから口に咥えた。それがベイプ、つまり電子タバコである事は、大学でもカフェでもよく見掛けるから祈里にだってわかった。でも天馬がそれを喫っているのも、持っていた事すら知らなかった。
毎週日曜のこの部屋での逢瀬の時、天馬はいつもブランド物のライターの開閉音を鳴らしながら、紙巻煙草に火を点けていたのだから。部屋に匂いが付くからと言っても止めてくれず吸殻を量産していたのに...納得いかずじっとりと見つめていると、祈里の視線に気づいた天馬がしょんぼりと眉を下げて言った。
「仕事の時はこっちに切り替えてんだよ。服や髪に匂いがつくのを嫌がる客って多いからさ。お客自身がスモーカーな場合もあるけど、俺はコッチ」
「ふーん...」
短く答えた祈里の心の中に滲んだ不満に気づいたのかどうなのか、天馬は口からフーッとバニラの香りの蒸気を吐いて、それから申し訳無さそうにしょんぼりと眉を下げた。
「悪い。でも仕事離れて恋人とのプライベートの時くらい、好きな方喫いたいんだよ」
「プライベート...」
天馬の言葉に、今しがたまでのモヤモヤがパアッと霧散してしまう祈里。なるほど、天馬にとって祈里は恋人で、祈里の部屋は超プライベート空間。確かに職場であるホストクラブでは、接客しなければならないお客の女性達に失礼の無いように気を張っているのかもしれない。
「しかもウチの店、代表もランカーも軒並みコッチに切り替えてるし、そうなると俺如きが紙喫い続ける訳にもいかないじゃん?この業界、こう見えて体育会系だしさ」
「まあ、そうだよね」
今度は納得して、うんうん頷く祈里。
(そっか、僕の前だからリラックスしてるのか)
職場の上司や同僚、お客の前では気を張って見せられないけれど、祈里の前では素を晒せるという事...と、好意的に解釈していくやや胸きゅんモードに入っている祈里。しかしすぐに我に返って、真面目な表情で天馬に聞いた。
「で、助けてって...一体何があったの?」
途端に天馬の眉間に皺が寄る。それから、ベイプから唇を離しテーブルに置いて、また肩を落としてしまった。本当に、天馬をこれだけ落ち込ませるとは一体何があったのだろうか。
祈里は固唾を呑んで、天馬の次の言葉を待った。
「実はさ...。客に飛ばれて...」
「とばれる?」
「売り掛け残したまま連絡が取れなくなったんだよ、俺の客が」
苦々しい表情で吐き捨てるように言い放つ天馬。これも祈里が初めて見る表情だ。それにしても、売り掛けを残して消息不明になるのを飛ぶと言うとは知らなかった。未知の世界の知識をひとつ得たなと祈里は思った。
「そっか。売り掛けって確か、後払いするお金って事だよね?」
そう確認した祈里に、天馬は頷く。
「そう、ツケってやつ」
「やっぱそうだよね。でも、それで何で天馬が困るの?お店とお客さんの間の話じゃないの?」
首を傾げて言うと、天馬は首を振った。
「いや、客が店で使って売り掛けにする場合の金ってのは、その客の担当ホストが立て替えるって事になってるんだよ。で、普通は締め日までには返してもらう」
また初めての知識が、と祈里は思った。まあ、通販なんかも支払い方法には後払いの項目もあったりするし、不思議は無いのかもしれない。
「そうなんだ、担当ホストとお客さんの...」
「と言っても、実際はその場でホストと客が現金の貸し借りをする訳じゃなくて、ツケにされた分の代金を担当ホストが店に支払いを待ってもらうように交渉して、客から回収でき次第店に入れるって事な」
「うんうん」
「金の事だから、勿論どんな客にも売り掛けを許してる訳じゃない。何度も来てくれてある程度信頼関係を築けてる客にしか...。今回も、前に何度か売り掛け回収できた客だからって思って。身分証も確認してたし、勤務先の店も知ってたから油断した」
「……」
そう言って頭を抱えてしまう天馬に何と声をかけたものかと悩んだ祈里だったが、このままでは埒が明かないのでこわごわ聞いてみる。
「...ところで、その...売り掛け金?って、いくらなの?」
「300万」
日頃耳にする事の無い大金に、流石の祈里も絶句してしまった。
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