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(さ、300万?聞き間違え...じゃ、なく?) 3万でも30万でもなく、300万。いくら支払い実績があるからと言っても、1人の客にそこまでの金額の売り掛けを許すものなのだろうか。考えられない。しかし夜の世界ではその額の遣り取りは当たり前の事なのか? そこそこに裕福な家庭に生まれ、それなりの生活レベルで暮らし、大学進学に伴って始めた一人暮らしの費用も全額親持ち。その上十分な小遣いももらい、バイトすら不要と言われている祈里にしても、300万は間違いなく大金で動揺を隠せない。しかし自分の価値観がそうだからと、知らない世界の価値観を否定するような事を言うべきではない。 祈里は胸に手をあて、2、3回深呼吸をして心を落ち着けてから、天馬に向き直った。 「...そっか。連絡、全然取れないの?」 「ああ、全く。連絡は取れないから勤めてた筈の風俗店に行ってみたけど、辞めたって言われた」 「風俗...」 「こういう店の客には多いよ。1回来て数万から数十万だし、実家が太くでもなきゃ女が金を稼ぐ手段なんて知れてるしさ」 「まあ、そうだよね...」 普通の大学生である祈里は、夜の世界の事には疎い。ホストクラブが女性相手の仕事だという認識はあっても、客になる女性達の職業などまでは想像した事が無かった。でも言われてみれば天馬の言う通り、自立したバリキャリ女性か実家が金持ちでもない限り、若い女性が安くはないホストクラブで散財する金を得るのは難しいだろう。そして、そのどちらの背景も持たない女性が自力で稼ぐ手段が風俗、という事なのかと合点がいった。 しかし、そうまでして...とも思ってしまう。そして、今目の前に居る天馬にも、そういう風に金を作って会いに訪れる指名客がひとりふたりではないのだろう。改めて考えると、複雑な気持ちになってしまう。 「...お客さんも大変なんだね」 思わずそう呟くと、天馬は頷いて、 「まあな。体張って、メンタルもきつい、すげぇしんどい仕事だと思う。そんな思いをしてまで店に顔を見に来てくれるの、いつもありがたいと思ってる。そんなに応援してもらってるのに、全然鳴かず飛ばずの自分が情けねえ」 と言って、悔しそうに唇を噛む。 「一度で良いから、指名で来てくれる姫達に俺のラスソン聞かせてやりたい...」 「天馬...」 ラスソンはわからないが、そう言ってガックリと肩を落とした姿が哀れになって、祈里は天馬の背中を慰めるようにさすった。 「大丈夫だよ、天馬はカッコいいもん。きっとそのうち...」 「そっかな...」 「そうだよ。僕の彼氏は世界一カッコいいんだから」 「祈里...」 天馬が顔を上げて祈里を見つめた。そして、どちらからともなく重なる唇...。すぐに天馬の舌が唇と歯列を割って侵入して来て、口内を舐め回される。だが、何時のような苦味を感じないそれに、ほんの少しだけ違和感を感じる。 (お客さんやお店の人達に気が使えるなら、僕が言った時にも煙草止めて欲しかったな...。いや、そんな事考えちゃダメだ。お店で気を張らなきゃならない分、恋人の僕の前でくらいは気を抜かせてあげなきゃならないよね) 胸の隅に湧く不満を押し込めながら、祈里は口中に溜まった2人分の唾液を飲み下した。 キスはたっぷり5分以上。やっと解放されて、濡れた唇を手の甲で拭う。唾液は乾いてくると匂うから本当はウェットティッシュに手を伸ばして拭いてしまいたいけど、流石に本人の目の前では失礼。自分がそれをされても傷つくしと我慢する。 そして拭い終わった祈里は、核心に触れる質問をした。 「で、事情はわかったけど...聞いた限りじゃ、僕が助けられる事なんかなくない?」 何度も言うが、祈里は只の大学生だ。実家はそれなりに裕福だけれど、それは両親が経済力を持っているだけの話。未だ学生である祈里が自由に使える金がある訳ではない。月の小遣いは3万円。生活費のどこかを切り詰めればもう少し増えるだろうが、何か必要な物や欲しい物がある場合は連絡して別途振り込んでもらうので、今の所は切り詰めてまで遊ぶ金を捻出しようとした事は無い。大学生ともなれば、クレジットカードの家族カードを持たされている者もいると聞くが、祈里の両親はクレジットカードは持たせる必要は無いとの方針。よって祈里が持っているのは、自分名義の銀行口座の、キャッシング機能も付いていないごく普通のキャッシュカードのみだった。 祈里は金遣いが荒い方ではない。小遣いを丸々使い切る事もないから多少は口座にストックされている。とはいえ、それも10数万だ。300万なんて大金はとても用意できない。 そんな祈里に、一体天馬はどう助けて欲しいと言うんだろうか。 「天馬の事情はわかったし、力になってあげたいのはやまやまだけど...僕、助けられるほどのお金なんか持ってないよ」 そう言いながらテーブルの上に視線を落とすと、時間が経ってしまったグラスは氷がほぼ溶けて、すっかり汗をかいてしまっていた。 それをぼんやり眺めていると、天馬が口を開いた。 「...実は昨日、上に掛け合ったんだ」 「あ、相談したんだ?」 それなら余計に、自分に出来る事なんか無さそうなんだけど、と思いながら祈里は相槌を打つ。天馬は続けた。 「1週間後には締め日が来る。それまでに20入金出来たら、残りは何回かに分けて払っても良いって店長は言ってくれてる。でも、」 「でも?」 「その金をどうやって作るんだって話なんだよ。祈里はさっきああ言ってくれたけど、ぶっちゃけ俺は人気の無いキャストだ。店には俺よりルックスも良くて喋りも上手い奴がごまんと居る」 「そんな...」 天馬は決してプライドが低いタイプではない。そんな彼が、『自分は人気が無い』なんて言うのは辛いだろうに...。正直に恥部を晒してくれるのも、自分を信頼してくれているからこそに違いない、と胸が痛くなる祈里は本当にチョロかった。 「だから正直、店の給料から返済してくってのは期待出来ない。俺らの給料は売り上げで決まるからな。そんなに本指名を持ってない俺の売り上げなんか大した事無いし、今回客も一人逃してるし、余計厳しい。休んで飛んだ客を探し回りたいとこだけど、そうするとペナルティで給料なんか残らなくなる」 「そんな、ヒドイ...」 「実はウチの店、オーナーが裏社会と繋がってるんだ。ちゃんと店に金を入れられなかったら、俺...どうなるかわからない」 「...!!そんな...どうしたら良いの?」 不安を煽られるだけ煽られて、祈里の顔色はどんどん悪くなっていく。ずっと働いても給料は期待出来ないのに、金を工面しなければ天馬の身が危うくなる? そんな理不尽な...。天馬は悪くなんかないのに、返せなければ裏社会がどうのだなんて。天馬はどうなってしまうのか。 とうとう顔色を失くしてしまった祈里。天馬はソファから立ち上がって、そんな祈里の横にガバッと土下座を始めた。 「だから、ごめん、祈里!!暫くの間だけで良いんだ。祈里が稼いで、俺を支えてくれないか!! 勿論、その間も逃げた客は探す!!客が見つかり次第、金を回収して祈里に借りた分も返すから!!」 「稼いでって...でも僕、バイトもした事無いよ?」 突然稼げと言われて困惑する祈里。土下座していた天馬は膝立ちになり、そんな祈里の耳に囁いた。 「祈里には、この綺麗な顔と最高の体があるじゃん」 「え?顔と体って...」 「ウチの店に来る女の子達なんかより、祈里の方が断然綺麗なんだぜ?」 「...」 「承諾してくれたら、稼ぎ方はレクチャーするから。な、頼む祈里。俺を助けてくれよ、恋人だろ?祈里しか頼れないんだって」 また土下座を始めた天馬に、祈里は混乱。 「......それって、まさか...僕に体売れって言ってる?」 そう問うと、天馬は土下座したまま、祈里の顔も見ずに言う。 「頼む!!」 その答えに、祈里は頭を殴られたようになり、胸の奥が一気に冷えた。 「俺だって、祈里を他の男なんかに抱かせたくなんかない。でも、金を作れなきゃ、俺...もう祈里に会えなくなる」 絞り出すような声と土下座で懇願する天馬。恋人にそこまでされて、祈里はどう断ったら良いんだろうか。 「……わかった。」 「祈里!」 飛びついてこようとする天馬を片手で制して、せめてもと祈里は言った。 「でも、絶対早くそのお客さん、見つけるって約束して」 「絶対全力で探す!」 「...うん」 そうして、いくつもの違和感を感じながらも、天馬の口車にまんまと丸め込まれてしまった祈里は、翌日から夜の公園に立つ事になったのだった。
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