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それが料金交渉だと気づいて、祈里は思わず目を見開いた。驚いた事に、どうやら男は今夜の客候補だったらしい。 祈里は改めて、まじまじと男を見つめてしまった。 (こんなイケメンが人を買う?) 目の部分が隠れてはっきりしないにしても、イケメンであるのは間違いない筈。百歩譲って、万が一素顔が残念だったにしても、この均整のとれたプロポーションとそこはかとなく纏っている金のニオイに惹き付けられる男女は少なくないだろうに。 とても娼夫を買わなければならないほど、相手に不自由しているようには思えない。 (茶化されてるのかなあ…?) しかし本当に客になる気で料金交渉を持ち掛けているのなら…。判断に迷ったが、取り敢えず答える事にした。 「泊まりなら、ホ別で10、です…」 ショート(1時間)で2万円、延長30分毎に1万円、ロング(8時間)で貸し切ってくれるなら、出血大サービスで10。ホ別というのは、ホテル代は料金とは別に客持ちという事。 それは最初に宇高に設定された料金だった。右も左もわからない祈里は、それでやれば良いと言われたからそうしているだけ。客との交渉時にそう提示しても毎回すんなりと了承されるし、それに最初から2時間で交渉して来る客が多かったから、一般的にそんなもんなんだろうと思っていた。実際には、男の売りとしては相場の倍以上の金額をふっかけている訳だが、どういった巡り合わせか金払いの良い客に恵まれ、同業者とも言葉を交わす事の無い祈里がそれを知る機会は無かった。 だと言うのに。祈里は、何故か男にはその金額を口にするのに躊躇いを覚えてしまった。今までそんな事は無かったというのに。 だがそんな祈里の気持ちを他所に、一晩の料金を知った男はあっさりと首を縦に振って了承した。 「10万か…安いね」 「…」 「交渉成立、って事で良い?」 まだ返答を返す前だと言うのに、早々と腰に腕を回して来る男に、祈里は慌てた。 「あっ、あの…」 「何時もはどこ使ってるの?」 「え」 「ホテル」 「あ、えっと、LEEかグリーンヒル…」 大通りに向かって歩きながら、いつも利用しているホテルは何処かと男が聞いて来たので、祈里はよく使っている2軒を挙げた。この手の行為に使われるホテルは、男性同士お断りの所が多いが、この2軒では嫌な顔をされる事がない。その分、料金は少し高めなのだが。他にも2軒ほど、受け入れてくれるホテルはあるが、料金が安いからか大抵満室だ。 男は、祈里の口から出た2軒の名を聞いても、あまり納得いかない様子。そして、こう聞いてきた。 「ふうん。でもホ別なんだよね?なら俺が選んでも良いって事?そこじゃなくても」 「えっ…」 祈里は戸惑った。そこじゃなくても、とは…。 自分が知っているホテルの他にも、他に同性カップルを受け入れてくれるところがあったという事だろうか?確かに祈里はこの辺りの数軒しか知らない。もしかすると、男は祈里の知らないホテルを知っているのかも。でも、全くの新規の客に着いて行って、もし変な場所に連れ込まれたりしたら困るなと思った。 もしもの時に助けを求める事を考えたら、宇高のテリトリーからはあまり離れない方が良い。それに、帰る前には稼いだ金を渡す為に天馬の店の裏口まで行かないといけないから、やっぱりあまり遠くには行きたくない。でも、体の負担を考えれば、一晩に2、3人に買われて何度もこなすより、時間は伸びても1、2回で済むロング客はありがたい…。 色々考えてみた末、祈里は意を決して言った。 「…あまり、遠くは困ります」 「了解」 男はあっさりと頷き、上着の内ポケットから自分のスマホを取り出して、歩きながら操作し始めた。 祈里が連れて行かれたのは、見慣れたラブホではなく、大通り沿いに建つ外資系の大きなシティホテルだった。ラブホの何倍も、下手をすれば10倍以上もの料金だ。特に閑散期でもないであろう今の時期に、数分前に予約をしてすんなり部屋なんか取れるものだろうか、というランクのホテル。しかも通されたのが、普通のシングルやツインではなく、まあまあ広くて大きな窓から見える夜景が綺麗な部屋だったので、祈里はまた困惑した。調度品も何だか高級そうだし、寝室もリビングとは別にあり、置いてあるベッドも見慣れないサイズの大きさだ。 この2ヶ月、ロングの客には何度かついたけれど、こんな場所に泊まった事は無い。あまりにいつもと違う状況に、うっかり手順を忘れてしまい、ぼんやりと街の灯りを見下ろしてしまっていた。 「お金、先に取らなくて良いの?」 「…あっ」 男に言われ、そうだったと祈里は我に返った。 男が黒い長財布から無造作に札を抜いて差し出して来るのを両手で受け取り、枚数を確認する。10万円より5枚多かった。数えずにサッと出していたから目分量になっちゃったんだなと思い、祈里は男に札を5枚返そうとした。 「多かったです」 「良いよ、取っときなよ」 「いや、それは」 「俺、一度出した物は戻さないんだ」 「そう、なんですか…ありがとうございます」 そんな風に言われては仕方ない。執拗く返してせっかくの上客に機嫌を損ねられても困るので、祈里は礼を言ってから、ありがたく自分の財布に入れた。金持ちには、きっとそういう人もいるんだろう。ここまでが完全に男のペースだったのは気になるけれど、仕事が始まったら自分がイニシアチブを取らなければと、祈里は内心で気を引き締めた。 長く続ける気は無いと言っても、金の授受がある以上はきちんとこなさなければ。 どれだけ稼いでも自分の懐に入るのは精々交通費くらいだというのに、生来の真面目さと育ちの良さ故に妙なプロ意識を持ってしまった祈里だった。 さて、金の受け渡しが終わったなら、今度は準備をしなければならない。 (お湯張らなきゃ) 祈里の短い経験上では、1時間の客でない限り、大抵は一緒に風呂に浸かりたがった。だから祈里は、部屋に入るとまずエアコンの温度調整をして、次に浴室に行き、バスタブに湯を出す事が習慣になっている。スマホで8時間後にアラームをセットする為に俯きながら、祈里はベッドに腰掛けている男に告げた。 「じゃあ僕、準備しますね。少しお待ち下さい」 セットし終わり、スマホをベッドの枕横に置いて浴室に向かおうとした祈里の腹に、また背後から男の腕が巻きついて来た。
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