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⑧
「どこ行くの」
男の声と吐息が耳にかかる。さっきよりも濃く香るフレグランスに、少しクラリとした。それでもすぐに気を取り直し、答える。
「あ、いえ、お湯張りに行こうかなと」
「お風呂?…2人でお風呂も楽しそうだけど、後で良いや」
「え、ならシャワーだけにします?」
「シャワーも後で良い。流したりなんてしたら、君の匂いも味も消えちゃうだろ」
「…味」
祈里は思った。このお客、見かけによらず変態だ。
確かにごく稀に、理由で祈里にシャワーを浴びないでくれないかと頼んで来る客も、居るには居る。でも断る。祈里は一応、仕事に来る前の気構えとして、軽くシャワーを浴びてから出て来るようにしているけれど、それでも今は夏場。日が暮れたとてそこまで気温が落ちる訳も無く、公園まで電車と徒歩で片道20分ほどかけて到着するまでには、それなりに汗をかく。そんな体を舐め回されるのには抵抗があったからNGにしていたけれど…。
今回はロングで借り切られ、しかも破格のチップまで貰ってしまった手前、断りにくい。というより、そうでなくともこの客、妙に圧があって逆らえない雰囲気がある…。
(仕方ない、覚悟を決めるか)
祈里は諦めて、男の腕の中でコクリと頷いた。
「わかりました、じゃあ…」
そう言った途端、うなじに何かが這った。
「ひあっ?!」
祈里の白く細い首筋。その滑らかな薄い皮膚の上を、男の長い指が滑り、少し伸びた襟足の髪を弄ぶ。そしてその細い黒髪の束を摘み、口付けた。
「綺麗な髪だ。それに、良い匂いがする」
祈里はまた思った。そりゃコンディショナーの香りです、と。部屋を出る前に髪を洗ってからまだ1時間と少しなのだから、多少汗をかいたって香料の香りは残っているだろう。
だがそんな回答をしてもシラケるだけだろうから、祈里は静かに口を閉じたまま、大人しく男のする事に身を任せる。間もなくうなじには、指以外の柔らかいものが触れてきた。そして、あたたかくて濡れた何かが這わされる。
「…っふ…」
唇と舌での愛撫は指とは比べ物にならず、祈里は思わず小さく吐息を吐いた。
「感じ易いね、可愛い」
「そんな、こと…」
「こんなんで仕事になってる?」
男の言葉に少し顔が熱くなったのは、どういう感情からなのか。祈里自身にもよくわからない。 だが、このまま流され続けると、確かに男の言うように仕事どころではなくなりそうだ。そう思った祈里は意を決し、男の方を見ようと体を捻る。すると、なんと男と視線がかち合った。
そう、目が合ったのだ。
「…え…」
男の顔からはいつの間にかサングラスが取り払われていた。そして、そこには想像していた以上に美麗な顔が。芸術的とも言えるほど切れ上がった眦に、煌めく黒い瞳は艷めく長め黒髪と最高の相性。他の部位の造作との相乗効果で、もはや異次元に美しい男。
しかしその顔を見た祈里は、瞬時に思い出した。
(あ、この人…いつも天馬の店の看板で見てる人だ)
ご存知の通り、祈里は仕事が終わると毎回律儀に、稼ぎを天馬に届けに行っている。キャバやホストクラブではその店の人気キャストなどを外看板に掲げていたりするところも多く、天馬が在籍している店もそういった店の一つだった。しかも、その地域では最大の規模を誇るグループの本店だ。
そんなホスト看板の中でも、上にNO.1と表記された男の顔は一際大きく目立っていて、確かその付近のビルの2、3階部分の外観にもデカデカと単独で流し目をキメていた。
道理で何だか既視感があった筈だ、と祈里は納得。思い出せず、喉に小骨の刺さったようなモヤモヤが解消して、少しホッとした気分になった。
が。
(…あれ?いや、待てよ…)
男の正体が判明すると今度は、何故自分を買ったんだろう?何の為に?とますます不思議に思ってしまう。
そして考えている内に、以前天馬が言っていた言葉を思い出した。『ナンバー入りするホストは月数千万売り上げる事も珍しくない。その中でもウチのNO.1は別格』だと。月数千万が珍しくない世界での別格がどれほどのものなのか、祈里には想像もつかないが、道理でこの金払いの良さだと納得は出来た。だがそれ以上に、金を持っていて容姿も良くて、絶対に相手に不自由はしないであろう人間が、わざわざその辺の野良娼夫を買う意味が余計にわからないなと思った。
(まさか、僕が天馬の…ってのは、知らないよね?)
ふとそんな考えが浮かんだが、それは無いだろうと打ち消す。天馬に稼ぎを手渡しに行くのは、祈里にロングの仕事が入らない限りはいつも23時過ぎ。でも、接客の仕事中である天馬が毎回すぐに裏口に出て来られる訳ではなく、待たされる事も多い。客を2,3人こなして来て疲れている祈里は一刻でも早く帰って横になりたいのだが、お客さんを放置できない天馬の事情もわかるからじっと待つ。そうして待っている時に、何人かのキャストを見た事はあるけれど、この人とは会ってない筈だ。直に会ってたら絶対に忘れたりなんかできない、こんな強烈な男。だから会った事なんかない。よって、男の方も祈里と天馬の関係は知らないに違いない。
祈里は自分の中でそう結論付けて小さく頷いた。
「どうしたの?俺の事、知ってる?」
整い過ぎた顔は冷たく見えると聞くが、男が浮かべる微笑みは蕩けそうに優しく、祈里の心臓は煩くなる。
「あ、の…はい、近くの看板で、見た事が」
「ああ、そうだよね。あの公園から近いもんね」
男は頷きながらそう言い、優しい指遣いで祈里の前髪をかきあげて、つるんとしたおでこにキスをした。ひゅっ、と息が止まりそうになる祈里。体目当ての男が優しいのは普通の事だと知っているけれど、こんなに甘い瞳で見つめられて、おでこにキスされた経験は無い。これが女を惑わせるプロの手管か。いや、一流のホストの魅力は女だけに発揮されるものではないという事なのかと、顔に熱を集めながらも感心してしまう祈里。
そんな反応に、何かを刺激されたのだろうか。男は一瞬目を眇めた後、傍のベッドに祈里を押し倒した。そしてその両手に自分の両手を絡めて、祈里の頭上で優しく拘束した。それだけで祈里は完全に動きを封じられてしまい、不安に潤んだ茶色い瞳が困惑したように男を見上げる。
男は、そんな祈里に言った。
「可愛いね、祈里クン」
「え」
祈里の眉が寄った。祈里は男に、まだ名前を告げてはいない。聞かれていなかったからだ。しかも、客に聞かれても偽名しか教えていないというのに、この男は何故、祈里の本名を知っているのか…。
赤くなっていた顔から血の気が引いていく。
祈里の困惑を他所に、男は言葉を続けた。
「俺は君を知ってるよ。祈里クン。これから君の事は、俺がずっと買い上げる」
「…は?」
「二度と他の客は取らせないから、そのつもりでね」
祈里の困惑は、混乱になった。よくわからないけれど、ヤバい客に捕まってしまったのかもしれない。そう思うのに、思いがけない展開に、どうしたら良いのか判断ができない。竦み上がってしまった体も動かない。
男の美麗な顔が、近づいてくる。
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