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⑨
避ける間も無く押し当てられた唇の柔らかさ。それはしっとりとしていて、天馬のカサついた唇とは全く違った。
(…あれ?気持ちいい…)
何度か角度を変えて重ねられ、薄く開いた隙間から舌を差し込まれる。口内に広がる爽やかなライムの香りとほのかな甘み。
(…にがく、ない…)
舌を絡められ、内頬や上顎を舐め回されても不快感を感じていない自分に驚く祈里。
実は祈里は、キスが苦手だ。キスをするくらいなら、フェラチオをさせられる方がマシだと思っている。だから、恋人の天馬とはともかく、客とはキスをした事が無かった。別に、『体は売っても心は売らない!』なんて矜恃を持っている訳でも、唇を死守して天馬に操立てしている訳でもなく、不快だから断っている。あの、生き物特有の生臭い匂いと、唾液の匂いが苦手なのだ。特に、煙草を喫っている人間は唇にも舌にも独特の苦味があって余計に嫌だった。だから天馬にされる時も、喜んで受け入れていた訳ではなかった。
だというのに。
歯の一本一本を丁寧に舐られ、絡めた舌と溜まった唾液を吸い上げられ、反対に唾液を送り込まれてそれを嚥下させられても、全く不快感を感じない。それどころか、脳みそがじんわりと痺れて、体中がふわふわと浮き立つような気分だ。この心地良さが終わってほしくない。
キスをして、そんな風に思ったのは初めてだった。
くちゅっ、くちゅっと合わさった唇の隙間から濡れた音が漏れる。その音に刺激され、余計に夢中になってしまった祈里は、初めて自分から男の舌を求めて吸った。
いつの間に指の拘束が解かれたのか、今や祈里の両腕は男の首と背に回されていた。男の腕も、左手は祈里の後頭部を支えて、右腕は背中に回されている。
夢中で貪りあう2人。
ややあって。ひとつに溶け合っていた唇が、銀糸を引きながら名残惜しげに離された。初めてのキスの快楽で多幸感に脳が支配されて、ぼうっと脱力している祈里。男はそんな祈里に目を細めて、暫く見つめた後、言った。
「すっごい乱れ方。祈里クン、見かけによらず淫乱なんだね」
祈里はぼんやりしながらも、言われた意味を理解すると、ショックを受けた。小さくふるふると首を振って、目にはじんわり涙が滲んだ。
「ちがう、ちがう……」
慣れている筈の言葉。いつもなら聞き流せる言葉。なのに今日に限って、それが心に突き刺さるのは何故なのか。祈里は自分が淫乱だなんて思った事はない。性的な事に関して積極的だった事は無いし、いつも求められる側だったからだ。この仕事だって、天馬の為に仕方なくやっている。そう、仕方なく。
でも、この仕事をしていれば、客のノリに合わせる事も必要だし、自分の体の負担を軽くする為に、それなりに演技する事もある。そんな時、客が祈里に対して様々な隠語を投げて来るのは珍しくない。客は悪気ではなく、興奮材料のひとつとして口にするのだというのも理解しているつもりだった。
なのに今夜、同じ言葉をこの男に言われただけで、こんなにも気持ちが波立つ。それが何故なのかは、祈里にもわからない。でも、悲しかった。
「僕は、ほんとは、こんな事…ぅう…」
祈里は、仕事中には大抵の事を我慢すべきだと思っていたし、実際にしてきた。でも、今日は我慢できない。とうとう目尻から涙が伝い落ちてしまった。
「ごめんね、あんまり可愛かったから、つい。考え無しだった、ごめん」
男は少し慌てたらしい。しゃくり上げる祈里を抱え起こして自分の膝の上に座らせ、幼い子供にするようによしよしと髪を撫でながら謝る。
「ぼくっ、僕は…」
「うん、どした?」
「ほんとはっ、こんな仕事、いやでっ…」
そこまで言って、祈里ははっと口を噤む。これは言ってはいけない事だ。客は皆、楽しむ為に大金を払って、祈里の時間と体を買っている。金を受け取った祈里がすべき事は、買われた時間内、それに見合うサービスを提供する事だけ。要らない事を言って萎えさせるような真似をしてはいけない――。
祈里はぐっと唇を噛んで、涙を堪えた。流れてしまったのは仕方ないとして、ここから巻き返さなければと思う。
「えっと、ごめんなさい。大丈夫です。今のは何でもなくて…」
手の甲で涙を拭い、赤い目をしてぎこちない笑顔を見せる祈里を、男は甘やかすように抱きしめた。
「大丈夫だよ、俺は全部わかってるからね」
「…え?」
「君みたいな子がこんな真似をさせられてる理由も、君を苦しめているものの正体も」
「…えっ、と…」
これは、自分を慰めてくれようとして言っている言葉だろうか?それにしては、と、囲われた腕の中から男の顔を見上げる祈里。気の所為か男の目は、さっきよりも更に甘さを増して見える。
そして、祈里に微笑みかけた男は、予想もしていなかった言葉を口にした。
「天馬ね、女が居るよ」
「…え」
男の口から天馬の名が出た事に、祈里の目が今日イチ大きく見開き、心臓が大きな音を立てる。
「隠さなくても良いよ。祈里クン、天馬にウリさせられてるんだろ?」
頭の中が、ぐるぐると忙しない。
天馬に、女?
僕が天馬に言われて体を売ってると知っている?
ついさっきの会話で、男が祈里を知らない様子だと思ったのに。
本当は知っていた。祈里の存在も、体を売ってる理由が天馬に関係している事も。知っていて、祈里に声を掛けた。でも、どうして。
「ど、して…」
男の目を見つめながらそう問いかけた祈里の表情は強張っていた。男の狙いが何なのかはわからないが、わざわざ天馬に女が居るなんて事を祈里に言うからには、祈里と天馬がどういう関係なのかも知っているという事なのだろう。 でも。
「それ、きっと、勘違い…。だって天馬は…僕を愛してるって…。女の子には、興味無いって…」
男の言葉を否定する為にそう言った声は震えていた。だってあの時天馬は話していた。女は恋愛対象にならないからホストの仕事ができる、と。化粧臭い女の子より、祈里の方が良いと。
だが、その言葉を聞いていた男は、それを鼻で笑った後、哀れむような目で祈里を見て言った。
「天馬が女に興味無い?そんな馬鹿な。アイツは無類の女好きだよ。しかも、入れ込むのはいつも風俗嬢。今ハマってる女も営業掛けに行ったヘルスの嬢だし。そりゃ、金はいくらあっても…だよね」
男は淡々と述べているが、その内容は今の祈里にとっては衝撃的過ぎる。信じたくない、否定したい。
「…そんな…嘘だ」
「本当だよ。俺んとこにはウチの店だけじゃなく、この街のあらゆる情報が入ってくるもん。
ああ、でも。祈里クンに出会っちゃったから、宗旨替えしたのかな?」
「…」
新たに与えられた情報があまりにショックで処理が追いつかない。
青ざめて無言になった祈里。男に背中を支えられ、残る片手で服の上から太腿を撫でられても呆然としている。
そんな祈里の耳に、男は唇を寄せて囁いた。
「でも大丈夫。これからは俺がアイツから守るよ。君はあんなつまらない男に搾取されて良い人間じゃない」
「搾取…」
自分は搾取されていたのか?知りたくなかった、そんな事実。
男は何がしたいんだろうか。さっきキスだけであれだけ天国を見せておいて、気づきたくなかった現実を突き付けて地獄に落とすなんて。
太腿の上に置いた手が震える。
そんな祈里に、男はとびきり甘い声で囁く。
「俺は麗都。三州 麗都だよ。これから君の本当の恋人になる男だ」
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