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1932年満州事変により日本が建国した傀儡国家満州国とソビエト及びソビエト同盟国モンゴルとは地続きで、その国境は5000kmに達し、小競り合いが絶えなかった。何しろハルハ河を国境と主張する日本はその川沿いに軍を配備し、ハルハ河より20km東を国境と主張するソビエトモンゴルはハルハ河を超えて軍を配備していたのだから紛争が起きても何ら不思議はない訳だった。ところが関東軍参謀辻政信少将が自ら作成した満ソ国境紛争処理要綱は、「国境線が不明確な地域では現場の司令官が自主的に国境線を認定し、侵入された場合には一時的に越境してでも敵を封殺する」という強硬であること夥しい内容だった。で、「消極的退嬰に陥ることは却って事件を誘発するものである。寄らば斬るぞの威厳を備えることが結果に於いて北辺(国境)の静謐を保持するものである」と関東軍参謀会議で辻は主張したが、慎重論を唱える参謀はなく皆、辻に同意した。寄らば斬るぞなぞと勇ましことを言うと単純な者どもは惹かれるもので殊に関東軍参謀島貫武治少佐は脳タリ中の脳タリンで戦後のインタビューでこう語っている。「国境紛争を処理する為にはこれしか方法がなかった。紛争を起こそうとしてやった訳ではないのだからね。それが偶々紛争になったんだけどね」責任逃れで言っている節もあるが、起こるべくして起こったことを斯様に戦後になっても言うって本当に無能だったんだなと思う。他の参謀も似たり寄ったりで関東軍内で辻の案が承認され、辻主導の下、関東軍は国境地帯に凡そ2000人を派兵し、当然の如く一触即発の事態を招いた。で、第一次ノモンハン事件に発展して行くが天皇は紛争を望んでいなかった。大本営本部(参謀本部)もどちらかと言うとそうだった。何しろ既に日中戦争で85万もの兵力を失っており、その上ソビエトと一戦を交えるという余裕はなかったのだ。本来、関東軍の独走を抑える立場にあった参謀本部の稲田正純大佐は偶々満州国を訪れていたが、これ以上、ことを荒立てないようにと関東軍にやんわりと伝えるに留まり、事実上、関東軍の行動を黙認した。関東軍は陸軍の一組織ながら30万以上の兵力を擁し、満州国の統治を担っていて参謀本部も容易に口出し出来ない存在となっていたのだ。それにソビエト軍を過小評価する参謀の一人であった稲田は、参謀本部に戻ると、ノモンハンの紛争に参謀本部が介入する必要はない、あんなものは放っといて関東軍に任せておけば良いとこんな調子だった。となると図に乗ったものか、辻はソビエト軍基地を叩くべく超境爆撃を主張した。本来、国境を越える軍事行動には参謀本部を通じて天皇の裁可が必要だが、辻は参謀本部には謀らず強行すべきと関東軍参謀会議で訴えた。で、「関東軍司令官ともあろうものがこういう国境の僅かなことで一々中央の了解を取っとったら満州は防衛出来んぞ」と豪語したことからも敵情を知らないばかりか火力も物量も劣る自軍の兵力をも把握していなかったのが窺える。にも拘わらず辻に対する参謀たちの評価は高く関東軍航空参謀の三好康之中将なぞは辻を天才と思っていた。そんな中、辻の上司である関東軍参謀磯谷康介中将は参謀本部と事前協議するべきと主張、しかし辻は折れなかった。結局、関東軍司令官植田謙吉大将は越境爆撃を承認し、関東軍の独断で実行に移された。何故、高が少佐である辻の意見がこれ程までに通ってしまうのかと言うと、当時、若きエリート将校が参謀として徴用され、陸軍全体の作戦の立案に当たっていて中でも辻は陸軍大学をトップクラスで卒業したし、植田とは上司部下の間柄で、その縁故が物を言っていたのだ。思い上がっていたのもあったろう、天皇の統帥権をも軽んじ、踏み切った越境爆撃は天皇の逆鱗に触れた。が、天皇を天さんと陰で軽く呼んでいた稲田はどうとでもなると侮り、誰が責任を取るかとの問いに、今、作戦をやっておりますから作戦が一段落したら責任を取るべき者に取らせますと言うと、天皇は植田の処分を示唆した。これに対し、辻さえいなくなれば関東軍は猫みたいに大人しくなると踏んでいた稲田は辻に責任を取らそうと陸軍の人事権を持つ陸軍大臣板垣征四郎中将を伺い、辻を関東軍から移動させることで事態を収めようとした。が、板垣もまた曾て辻の直属の上司だったから陸軍内の情実が優先され、天皇が問うた責任は事実上、不問に付された。
第二次ノモンハン事件が起きる一月前、ソビエト駐在武官土居明夫大佐はシベリア鉄道の車窓から大砲や戦車などの兵器を汽車が東へ向かって輸送するのを度々目撃し、これは少なくとも2個師団は送られてるぞ、大変だと危殆し、関東軍本部のある新京に赴き、植田や辻を始め関東軍首脳が出席する会議でソビエト軍の大部隊が送られていることを報告した上で現状の関東軍の戦力ではとても太刀打ちできないと警鐘を鳴らした。が、会議後、辻は土居を別室に呼び出し、「土居さん、あんな報告を東京でしたら若い者がいきり立って殺すかもしれん」と脅迫し、「東京でそんな報告をしてはならんぞ」と通告した。然るに土居は東京の参謀本部に長駆飛び、再度、危機を訴えた。ところが、参謀本部の多くはソビエト軍を軽視する姿勢を改めず、稲田に至っては西にドイツという強敵がいるからそれに対する準備をスターリンはするはずで東に手を出すはずがないと独り合点していた。当のスターリンは西のドイツと東の日本と同時に戦うことを恐れていたが、ドイツとの関係を改善し、一時的ではあるものの西側の脅威をなくすことに成功していた。従ってノモンハンに戦力を集中することが出来た。そんなこととは露知らず辻は相変わらず自軍を過大評価ソビエト軍を過小評価し、「牛刀をもって鶏を割く」と誤認するほど、不遜な頭で地上戦を立案した。
ソビエト軍は戦車部隊、日本軍は歩兵部隊が中心でその数2万5千、方やソビエト軍は5万7千、而も最新兵器を駆使するソビエト軍に対し旧態依然とした日本軍が適うはずがなく、圧倒的な戦力差を見せつけられ、援軍も補給もなく、食う物も水もなく、刀折れ矢尽き、敵に集中砲火を浴びる中、死臭が漂う壕の一隅で天命を待つ、そんな瀕死の状態でも持ち場を死守しろと命ぜられる。フイ高地に陣取る部隊もまた絶体絶命の窮地に立たされ、このままだと残存兵が餓死するだけだとやむを得ず隊長の井置栄一中佐は撤退を余儀なくされた。その翌日、現地軍の惨状を知らず斟酌出来ないどころか責任転嫁しようとする辻は井置をこう非難した。「フイ高地の井置部隊は800の兵力中、300の死傷者を生じただけで陣地から撤退した。師団長宛の報告には謝罪の言葉もない」剰え師団長小松原道太郎中将は現場のトップとして全軍に撤退を指示したが、部下の参謀が集まった会議で、「井置が自分の命令の前に無断撤退した」と糾弾し、「壊滅的打撃を受けたのは井置がフイ高地を捨てたためである」と責任をなすり付け、「自決を勧告するのが至当であると思うが、諸君はどう思うか」と問うた。すると皆が再考を求めたが、小松原は突っぱねた。結局、関東軍は軍法会議にかけることなく井置に自決を促した。で、小松原の側近によって拳銃を渡され井置が自決した2か月後、戦死者の慰問に回っていた小松原が井置家を訪れ、遺族が見守る中、井置の遺骨の前で合掌し、「井置は負けたから先に死んでしもうた。一緒に東京に帰ってその負けた惨状を多くの人に共に話したいと思っていたのに先に死んでしもうた」と言って嘘涙をこぼし、何も真相を語らなかった。ノモンハン事件が日本軍の敗北を以て終結した一か月後に軍から井置家に電報が送られていたが、それにも死因について何も書かれてなかった。
自決を促された将校は他にもいて戦時中、不時着して捕虜になった飛行第一戦隊長の原田文男少佐その人だ。彼に対し航空参謀の三好中将は、「部隊長が捕虜になったのでは部下に示しがつかん。もう既に戦死して靖国神社に葬るようにしてあるから。陛下のお耳にも入っている」と言った後、黙って拳銃を彼の前に置いて去った。戦後のインタビューで三好は原田少佐の自決について問われると、「私の関する限りじゃ知らんね」と飽くまでも白を切った。後のインタビューでは、「原田少佐から拳銃を貸してくれと言われた。自決は飽くまでも本人の意志だ」と食言した。
全く以て当時の参謀は御上の風上にも置けないクソばかりだ。これだから敗戦から教訓を得られず太平洋戦争に突入して各戦地で同じ失敗を繰り返し犠牲者を大量に生んだ。今の政治家もクソが多いからマジで日本はやばい。本当に古今の上に立つ者がその無知蒙昧にして不実で非民主的な劣悪たる性質に於いて符号するのだ。而も仮令、山本五十六のような道理に通じた大物に会いたいと願って永田町を歩き回ってもいないのだ。そんなことが言いたくてノモンハン事件(事実上、事件ではなく戦争、敗戦を隠蔽したいが為に事件としたに違いない。丁度、汚染水を処理水と言い換えた御都合主義の臭った精神と同等の精神で以て)を一例に取り上げた次第である。
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