絵本と咳と、白い彼

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絵本と咳と、白い彼

 一番古い記憶は、広い部屋と厚手の絨毯(じゅうたん)、そして一冊の絵本だった。  その頃の彼女はよく、お屋敷の一階にある日当たりの良い部屋で毎日を過ごしていた。  カーテンの開かれた窓の外は未知の世界だったけれど、彼女はその向こうに行ってみたいとは思わなかった。どんなに外の世界が明るくて暖かそうに見えても、その空気は、体の弱い彼女には毒になると知っていたからだ。  なら彼女は何をしていたかというと、毛足の長い絨毯の上に座りこんで絵本を広げていた。熱がなくてベッドから降りられる日はいつも、彼女はそうやって時を過ごしていた。  喉の奥からせり上がる乾いた咳の発作を抑えながら、背中を丸めて絵本のページをめくる。お行儀が悪いですよ、なんて叱ってくれる人は彼女の側には誰もいなかった。  読んでいるのはいつも決まってオットーの神話の絵本だった。いつか誰かが気まぐれに与えてくれた星のきょうだい、シウルとラエルの物語。  それを読んでいる間だけは、体のだるさも咳の苦しさも、一人ぼっちの寂しさも忘れられた。  だから彼女は、読み終わればまた最初のページを開き、いつまでも繰り返しすり切れた絵本を読んでいた。  ある秋の日のこと。彼女がいつものようにシウルとラエルの話を眺めていると、大きな影が絵本の上にかかった。 「……君は、こんなところで何をしているのだ?」  聞いたことのない、ぽつりとした男の人の声。  彼女は驚いて顔を上げた。  彼の顔は、絨毯に座りこんだ彼女のずっとずっと上にあった。お屋敷の使用人ではない。とても背の高い、彼女が初めて見る知らない男の人だった。  男の人の声は穏やかで、とげとげしたところがなかった。そのせいだろう、彼のことを怖いと感じることはなかった。 「ごほんを、よんでます」  彼女はそっと言葉を返した。  男の人はその言葉を聞いて少しだけ困ったような顔をした。 「ああ、もしかして君が。お母さんや、他の使用人はどうしたんだい?」 「わかりません」  お母さん、というのはきっと、あの女の人のことだろう。  毎日きらきらしたドレスを着て、香水の匂いを振りまいて、使用人たちと外の世界に遊びに行く女の人。あの人が近づくと、おしろいの粉や強い匂いで咳が止まらなくなるのであまり好きではなかった。
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