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いつもの廊下も、眺める高さが変われば全く別の景色に見える。彼女は男の人の胸に身を寄せたまま、階段への道を指差していた。
「だ、旦那様、いかがなされたのですか?」
途中、廊下で会った一人の使用人がぎょっとした顔で声をかけてきた。
「ああ、帰ってきたらちょうどこの子と会って。具合が悪いようだから部屋まで連れていく」
「さ、左様でございますか。では私が代わってお運び致します」
「構わない、私が行く」
男の人は穏やかに、しかしはっきりとした声で言う。戸惑う様子の使用人を見ると小さく肩をすくめて言葉を重ねた。
「見たところ君は、あれの供に出かける途中のようだ。私たちに時間を取ってあれを待たせるのは良くないだろう」
「は、はぁ……」
「行きなさい、こちらに手は不要だ」
使用人は困った表情のまま、一礼をして廊下を去ってゆく。男の人は気にした様子もなく再び廊下を歩き出した。
階段を上がり、彼女の示した部屋の扉を開ける。
男の人は彼女の部屋に足を踏み入れると、部屋の隅に置かれたベッドに彼女を下ろそうとした。
「……どうしたんだい?」
彼女の手は、彼の服をぎゅっと掴んだままだった。
どうしてか分からないけれど、その手を離したくなかった。行かないでほしかった。もっとずっと廊下が続いていればいいのにと、この人にずっと抱えられていたいと、そんなことを思っていた。
「着いたのだから離してほしい。私も部屋に戻りたいんだ」
そうは言ったものの、男の人は彼女の手を無理やり振りほどいたりはしなかった。ただ途方に暮れたような顔で彼女の様子を見下ろしていた。
「あ、あなたはだれ、ですか?」
彼女がそう言うと、彼は緑色の目をきょとんと丸くした。
「……ああ、そうか。私も君に会うのは初めてなのだから、君が知らないのも当然だった」
男の人は小さく息を吐くとベッドの前に膝をつく。
「私の名前はハヴィク・オルニス・イル・リディアンという」
緑色の目を彼女の視線に合わせた彼は、静かな声で言った。
「君の母親、アイラと結婚していてね。……君の父親だよ」
この人との出会いが、彼女の物語のはじまり。
後の世にシウル・フィーリスとして名を残す、彼女の数奇な人生のはじまりだった。
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