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1. 合鍵
そろそろ、東北に雪の報せが届く頃だった。
今にも雪が降りそうな天気を、雪催いと言うと教えてくれたのは、今は亡き姑だ。俳句を楽しむ、優しい人だった。
香子はマンションのドアの鍵穴に、恐る恐る鍵を差し込んだ。
悪いことをしているわけではないのに、誰かの日記を盗み見るような罪の意識と好奇心という、相反する感情が入り混じっていた。
ドアを開けると、まず夫の血だらけの通勤着が入った大きなビニール袋と、同じく血に染まった通勤バッグや靴が入った重たいビニール袋を玄関に運び入れた。
タクシーに乗る時に後ろのトランクに入れさせてもらったが、半透明のビニールに血が滲んで見え、ドライバーがぎょっとしていた。
長い一日が終わり、さすがに疲れた。
岩手の自宅で朝を迎えた時は、まさかその日の終わりに夫の仁の単身赴任先、福島にいようとは思ってもみなかった。
夢であればいい、そう思った。
玄関で靴を脱ごうとして上り口に目を止め、何か違和感を感じた。
夫のスリッパが綺麗に揃えられていた。
新婚時代から夫には口を酸っぱくして、スリッパは揃えるよう言い続けた。靴はきちんと揃えるくせに、スリッパは脱いだまま出かけて行くのだ。
「帰って来て靴を揃えてそのまま後ろ向きに上がるから、出かけたままの方が合理的だ」
そんな言い分だった。二人の子供が真似すると言っても駄目だった。
結婚して二十五年直らなかった癖が、今になって直ったのか?
ドアの新聞受けに差さっていた夕刊を内側から取り出す。するとその手が、新聞受けの底にある小さな金属に触れる。
取り出してみると、部屋の鍵だった。
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