新たな生命

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新たな生命

 長い時間だった。最後の陣痛から数時間ですずの体内に宿っていた胎児が誕生した。「おめでとうございます栗原様!」彼女の過酷な出産をそばで手伝っていた松山や保科は泣き声を漏らした。助産師の資格を有していた川村は赤子を抱きかかえると小さな布団の上に恭しく乗せ、体をふき始めた。彼女も大粒の涙を流している。病院での出産ではなく、境内内に新設した小さな処置室で行った。儀式を執り行う上において神聖なるこの地を選ぶようにと神が主張したそうである。すずはこのことを前もって信者らに伝え、理解を求めたそう。当然誰も異を唱えはしない。  出産はとても過酷なものだった。ベッド上で横になっての態勢ではなく、座ったままの姿勢でやるという昔ならではのやり方だった。部屋はほの暗く、カーテンが閉められた状態で外から見えなくなっていた。部屋の中央には天井から吊るされた太めの綱があり、紘一が設置したものだった。祈祷を受けた特別なものだそうですずに安心と力を与えたのだ。  実際これをひしと掴み、しゃがんで必死に踏ん張っていたすず。《我が体内に宿りし御子を産んでみせるのです!美波大神様によって造られたこの御子を。それが今のわたくしに課せられた役目!》苦痛の中、はっきりとした声で彼女は言った。出産を手助けしていた女性たちが一斉に当主を鼓舞し始めた。《栗原様!今が踏ん張りどころでございます。お若く健康な体でもって生んでみせましょう。》  ただ一人、部屋の向こうから静かにこちらを見ていた男性がいた。他ならぬ紘一である。すずの出産中は何も喋ってはならず、立ったまま動いてもいけない。男性優位の姫宮教ではあるが当主は違う。夫として妻に仕えねばならない立場の紘一は子を授かろうと必死に体を張るすずのたくましい精神力を受け止めるとともに、自らの体力をも見せつけねばならない。  この部屋へ入ってからまる24時間一睡もしていないし何も口にしていなかった紘一。もちろんトイレも我慢していた。当主に仕える以上、時としてこのような厳しい現実に耐えなければならないこともある。そんな時は神に対しこぼれんばかりの感謝を伝える。  神のお陰で僕はこうして幸せに生きていられます。  神のお陰でたくさんの人々と思いや考えを分かち合えます。  神のお陰で素敵な妻に出会えました。  今の暮らしに並々ならぬ満足を覚えていた紘一。幼い頃に両親が離婚し、借金に追われた母親と狭いアパートの一室でひもじい暮らしを余儀なくしてきた。紘一が高校に進学する少し前に母が他界し、天涯孤独の身となった彼。誰も守ってくれはしない。元気付けてくれる人もいない。兄弟がおらず、友人も誰一人できなかった紘一は一人で生きていくしかなかった。  幸い高校を卒業するまでは母方の親戚の家で暮らすことができた。乱れた家庭育ちの紘一を信用しようとする人は誰もおらず、ここでも彼は辛い現実を噛み締めねばいけなかった。借金さえなければ...  高校を卒業したらすぐ就職してお金を稼ぐ。生きていく以上、そうするしか道はないと思った紘一だが大学生活に憧れていたのも事実だった。奨学金を活用したとしても卒業後に返還しなければならない。抱えている借金はもちろん、卒業後の生活費やローン返済までも全て一人で背負わなくてはいけなくなる。  両親がおらず、未成年だった紘一には借金返済の猶予が与えられた。それも決して長くはなかったが。充実した大学生活の裏側で人知れず彼は苦しい思いを強いられていた。  就職してからも思うように仕事が捗らず、失敗の連続。人間関係などで躓きを見せるようにもなり始めた。いわゆる大人の発達障害による影響が大きかったと言えるだろう。  日々の暮らしに暗い影が落ちる中、出会えたのが同じアパートに住んでいた池下だった。紘一より四歳年上でいろんなことを知っていた彼。紘一に様々なアドバイスや手助けをした他、専ら話しの聞き役にも徹した。紘一はここに来てようやっと自分が幸せだと心から感じることができた。  そんな(紘一にとって)思いやりある温かい人よりも大事なものがあると言えたのだろうか。姫宮教会に足を踏み入れていなければ今頃どんな暮らしを送っていただろう?  教祖のひ孫で当主を務めるすずと結ばれ、子も授かった紘一。様々な教えを受ける中で神こそがこの世における絶対的存在だという考え方に強く惹かれていく彼。宗教的なものの見方や考え方を強く意識するようになるとそれまで仲の良かった池下と激しく対立。ついに関係が壊れてしまった。  当主の夫として強い責任を持つようになってからというもの、熱心な布教活動や修行に身を注ぐ日々が続いた。そう。今の紘一にとって信じることのできるのは美波の稲荷神に妻である当主、それから教会内の信者だけだった。  
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