マホガニー色のオペレッタ

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

マホガニー色のオペレッタ

 日が沈んでも人がいまだ行き交う、ダウンタウンのレッドブリック通り。町の灯りで星空は見えないが、夜闇と街灯の橙色が対照的にこの町を彩っている。そのような眠らぬ町でも、徐々に夜は更けていく。通りの裏道にある、小ぢんまりとしたカフェバル「ロザリンデ」。レッドブリックの隠れた名店とされ、それなりに繁盛しているこの店もそろそろ明日に備えて夜を終える支度の時が近づいている。 看板を下げるか否か、そんな具合に店長を除けばこの店唯一の店員、ベアトリスが表へ出ようとする……と。 「やあ、まだ開いてるかい?」 「あ、いらっしゃい、モルセゴさん。大丈夫ですよ」  バサバサと空を切る翼の音。静寂が訪れ始めた夜に聞こえたバリトン。夜空の黒に紛れていた姿の輪郭が、店のカンテラに照らされ全容が浮かぶ。大きな尖った耳はウサギのよう。鼻の高い黒い顔は犬のよう。けれど、細い手指に繋がった皮のある黒い翼はコウモリのそれ。けれど、瞳は黒目ではなくオパールのごとき不思議な輝きがある銀色。襟の高いコートにスラックス、カッターシャツにベスト、ネクタイを気取って着こなしたその男……モルセゴの顔見ると、ベアトリスはすぐに店内の席へと案内した。 「間に合ってよかったですね。ラストオーダーぎりぎりでしたよ」 「ああ、聞いておくれよ、ベアトリス。憲兵の連中、私を吸血鬼と見誤り二時間も拘束したんだ。二時間もだ!」 「そ、それは災難でしたね……」 「まったくもって、失礼にも程がある。よりによって、吸血鬼と!私は血を啜るあの連中などとは違うというのに!この品性がわからないというのか…やれやれ。おかげすっかり夕食も遅くなってしまった。空腹で私は限界だ!」 「……ハハハ」  喜劇の俳優のごとく、全身で怒りを表現し、大袈裟なほど嘆いて見せるモルセゴにベアトリスは苦笑しながら、少し染みのあるエプロンの紐を結び直した。夕焼け色の髪をほんの少し整え直すと、モルセゴが憤慨し愚痴る度、口からちらりと顔を出している犬歯を見てやはりまた苦笑する。容姿で判断するのはよくない。けれど、人へと危害を加えやすい亜人である吸血鬼を中心に、日々町の安全へと目を光らせ神経を磨り減らしている憲兵たちの気持ちもわからないではないからだ。まあ、それはそれとしてその牙を一度も民間へ立てたことのないモルセゴが顰蹙するのも理解できる。謂れのない罪を問われるのは誰だって不愉快だ。強いて彼に非があるとすれば……吸血鬼にも色んな事情があることを考慮していないことだが……。……今、この場に吸血鬼の客がいないことにベアトリスは安堵した。自尊心の欠片もない彼というのもそれはそれで案じてしまうけども。 「じゃあ、いつものでいいですか?」 「ああ、勿論だとも。今夜も頼むよ」 「オーダー承りました。よろこんで」  ともあれ、モルセゴが今夜も一日の疲れの憩いの場として、ロザリンデを、ベアトリスと店長自慢のダイニングを選んでくれたには違いない。ベアトリスは微笑んで、彼の望むものを用意すべく支度した。  店内のカウンター席、その隣。壁ぞいに備え付けられた、年季のあるマホガニー製のアップライトピアノ。その前に腰掛け、ベアトリスは軽快に、だがゆったりと鍵盤を叩く。奏でる旋律とともに、ソプラノの歌声が響く。暖かな橙色とセピアの空間を流れていくラグタイム。モルセゴはカウンターに腰を掛け、カシスの香るグラスを片手に、跳ね踊るような音に耳を傾けた。 「ああ……やはり格別だな、君のものは」 やがて、その音楽も徐々に消えてゆく。モルセゴの食事では至極当たり前の現象だ。彼は血を好む吸血鬼ではない。それよりも特殊なものを食している。それは、声音……旋律や言の葉、響きその全て。年季の入ったピアノ、一流ではないが純真なソプラノ……店長の趣味の気まぐれ、ベアトリスがかつて志した夢の欠片の一端……それを果実の飲料とともに味わい空腹を満たすことを目的に、モルセゴはロザリンデまで足をほぼ毎夜運んでいるのだ。長い長いデクレッシェンド……その末にベアトリスが手を止めると、ともに穏やかなオパールの眼差しと拍手の音が贈られる。ベアトリスは微笑み、少し気取ってお辞儀をし、感謝の意を表した。 「たまには、一流の歌手が歌ったりするお店やオーケストラがあるお店には行かないんですか?」 「ああ、確かにそういう食事もたまのことなら結構だろう。けれど、どうもあのお高くとまった感じがくどくてね……数ヶ月に一回くらいがちょうどいいさ」 「へ、へえ……」  度々繰り返されるやり取り。ベアトリスの問いに、モルセゴがいつも通りやや嫌みったらしくこう返すのがお決まり。そして、そんな彼へとベアトリスが失笑するのもお約束。毎度思うが、彼は物事への評価が素直ではない。まあそれでも……厚意がなければこの店へは来ないはずだとは理解できる。非常にわかりにくくはあるが、ベアトリスは彼の"親切"に甘えることにした。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!