海 

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 空が入学してからは先輩に弟が入学したと告げ、自分のことは放っておいて欲しいとお願いした。先輩には今までのことを話してあったから大丈夫だと思いたかったけれど、それでも今までのことを考えると大丈夫だとは思えなかったから。 「海は心配しすぎだよ」 「俺は海の味方だよ」  何度も繰り返される先輩の言葉。  洗脳のように繰り返される言葉に安心し切った僕はその言葉を素直に信じてしまった。 「はじめまして。  海、紹介してもらえる?」  僕に向けたいやらしい笑顔を引っ込め、先輩に綺麗な笑顔を見せる。  僕にだけ見せるいやらしい笑顔と、僕以外に見せる綺麗な笑顔。  どうすればこんな風に綺麗に使い分けられるのかと思うほどで、そのせいで誰も気づくことのない空の本性。 「弟の空です」  空が生まれた時から強要されていた兄としての振る舞い。空にお願いされたら断ってはいけないと教え込まれた僕は、紹介したくないと思いながらも空を紹介する。 「こちら、洵先輩」  僕の言葉に先輩が軽く頭を下げる。 「先輩ってことは3年生なんですよね?」  そう言って当たり前のように僕の隣に座る。 「空、ここ図書室だから」  話を続けようとした空に遠回しに迷惑だと伝えたつもりだけど、そんなことで動じる空じゃない。少し困った風な顔をして、先輩に微笑み言葉を続ける。 「高校に入ってから海と過ごす時間が減ったのって洵先輩と知り合ったからなんですね。  最近の海の話、聞かせてもらえませんか?」 「海」  先輩が僕の意向を聞いた時点で僕は諦めてしまった。  僕の話を聞いて、理解してくれていたのならば僕に確認することなく空に断りを入れてくれてくれるんじゃないのかと思ってしまうけれど、それは期待しすぎなのだろう。 「僕はもう少しやっておきたいから」  僕の断りの言葉を聞いて空が諦めるはずもなく、「じゃあ、海は頑張って」そう言って当たり前のように先輩を外に出るよう促す。 「海は?」  分かってはいたけれど、空に誘われて断ると言う選択肢は無いのだと虚無感に襲われる。あれ程話したのに、あれ程理解した風なことを言ってくれていたのに。 「僕はまだ今日やりたいところまで終わってないので」 「じゃあ、また明日」  そう言って先輩はそそくさと片付けを始める。  僕は気にしてないふりをして勉強を続けるけれど、2人の気配が遠ざかるのを感じて顔を上げる。標準より背の高い空と、空よりも背の高い先輩。  背は高いものの細身の空と、背が高く適度に筋肉のついた先輩は2人並ぶと見栄えが良いなとどうでもいい事を考えながら見送り、今後のことを考えてため息を吐く。  明日からはどこで時間を潰せば良いのだろう。  明日なんてもう無いのは今までの経験から分かっていた。  空が何を言って、どんな風にして僕を孤立させるのかなんて分からないけれど、僕がまた孤立するのは決まってしまった。  僕たちが2人で過ごした一年に足りない月日は、空と過ごしたわずか数分で無かったことになってしまったのだろう。  翌日、授業が終わっても図書室に行く気になれず、かと言って帰宅する気にもなれず、校内に身を潜めることのできる場所はないかと探すけれどそんな場所を見つける事もできず途方に暮れてしまう。  近くに図書館があればそこで、となるのだけれど都合よくそんな場所があるわけもなく、公園に行ったところで勉強のできるスペースもなく、結局は家に帰って部屋に籠るしかなかった。 「あれ?  海、今日は早かったね」  玄関で僕の靴を見かけたのだろう、わざわざ空が部屋に来て僕を嘲笑う。 「今日は先輩とお勉強は?」  無視をしても続けられる言葉。 「せっかく、2人で図書室で待ってたのに」 「ごめん、宿題してるから」  それ以上聞きたくなくて言葉を遮るけれど、そんな事で黙る空じゃない。 「洵先輩も海が来ないって心配してたよ。  こんなことなら連絡先交換しておけば良かったって。連絡先、教えようか?」 「ごめん、宿題してるから」  同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。その後も空は何か言っていたけれど「ごめん、宿題してるから」と繰り返すだけの僕に飽きたのか「はい、これ」と1枚のメモを僕に押し付けて部屋を出ていった。  チラリと見たそれは多分、先輩の電話番号。連絡先を交換しなかったのは空にバレるのが怖かったからだったけれど、空から渡されたその紙切れに書かれたのは僕にはもう必要の無いただの数字の羅列。  だから、その数字を確認することなくメモを握りつぶしてゴミ箱に捨てる。  結局、先輩も同じだったんだ。  僕は図書室に行くのをやめ、かと言って家に帰ることもできず校内で静かに過ごせる場所を探す。自習室はあるけれど、そんなわかりやすい場所にいれば空は先輩を伴ってそちらに移動してくるだろう。渡り廊下や駐輪場、体育館裏、思いつくところを回ってみても授業が終われば帰宅や部活で人が移動するためそれなりに人通りがあり、1人になることは難しい。  そんな中でようやく行き着いた場所は屋上に出る扉の前だった。  うちの学校は屋上に出ることを禁止しているため、常に施錠された扉の前に人が来ることはない。当然だけど窓もないため薄暗い。風通しも悪いため夏は暑く、冬は寒い。だけど、人の来ない場所は僕を安心させてくれる。  誰からも見向きもされない過ごし難い場所は僕にぴったりに思えた。  書き物をするには不便だけど本を読むには十分すぎる場所は僕のお気に入りの場所となり、僕だけの場所になる。  宿題をしたりノートをまとめる事はできないけれど、教科書や参考書にメモをするくらいはできるため帰宅後の勉強の効率も上がる。  時折、階段の下を通る人の声がするものの隠れるように過ごす僕に気付く人はいない。 「疲れた」  今までのように図書室に行くことが出来なくなったものの、この場所を見つけてからは比較的落ち着いて過ごせていたのに最近は空も先輩も僕のことを探しているようで、授業が終わると入る空からのメッセージ。 〈図書室で待ってる〉 〈何で来ないの?〉 〈先輩、もう来てるよ〉 〈何処にいるの?〉 〈早く来て〉 〈先輩も探してるのに〉 〈教室まで行くから待ってて〉 〈先輩も一緒だから〉  毎日入るメッセージは、先輩と一緒にいることを告げるためだけに送られてくるもので、僕を探していないことなんて分かっていた。  だから既読は付けても返す気は無いし、空だってそれを知っていてわざわざ先輩の前でメッセージを送っているだけの事だろう。  だから帰宅しても何も言わないし、朝顔を合わせたところで放課後のことを約束させられることもない。  空は僕の周りから人がいなくなればそれで満足なのだろう。  毎日が同じことの繰り返しで、僕が先輩とコンタクトを取るつもりがないと確信したのか空の興味は〈先輩と僕〉から薄れ、気付けばメッセージは無くなり、空が図書室に行くことも無くなったようだった。  だけど、僕の足が再び図書室に向かうことはなく、先輩は僕と繋いだはずの縁を空と繋ぎ直した。  あれ程〈弟〉の話を聞いてくれて、あれ程僕の気持ちに共感してくれていたはずなのに、それでも実際に空を見てしまったらその魅力からは逃れられないのだろう。  僕からすれば劣等感を刺激するだけの存在なのに、僕以外の人が見れば魅力的な存在。  僕に対してメッセージを送ってこなくなったけれど、2人が一緒に過ごしているのは知っていた。だって、先輩は空の部屋に来ているのだから。  父も母も遅くなる日に帰宅すると玄関に置かれているのは空のものでも僕のものでも無い靴で、先輩がいると分かっていても行き場所のない僕は気付かれないように自分の部屋に入り、身を潜めて時間が流れるのを待つしかなかった。  2人は僕の存在なんてどうでも良いのだろう。  僕が帰ってくることは知っているはずなのに、僕の部屋が空の部屋の隣なのを知っているはずなのに。そして、最終下校時刻を過ぎれば僕に行く場所がないのを知っているはずなのに僕の存在なんて無いものだと思い知らせようとするかのような2人の行為。  空の嬌声と先輩の息遣い。  そして、空の名前を呼ぶ愛おしそうな声。  僕は見ないふりをして、聞かないふりをして、知らないふりをした。  先輩の靴を見れば僕の靴が見えないよう部屋に持っていき、声が聞こえてくればイヤホンを使って聞きたく無い音を遮断する。  きっと先輩が帰る音がしているはずだけど知らないふりをして、息を潜めて部屋で過ごす。  僕はお兄ちゃんだから空のやる事は全て容認しないといけないのだから。  僕はお兄ちゃんだから我慢しなければいけないのだから。  僕の大切なものは、全て空に捧げるべきなのだから。
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