海 

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海 

「ごめん、好きな人ができたんだ」  真剣な顔の彼にそう言われ、僕はため息をつく。 「そうみたいだね」  やっと使い慣れてきた合鍵で玄関を開け、荷物を持ち直して部屋に入ると僕と付き合ってるはずの彼がキスをしていた。  軽く唇を合わせるだけのものではなくて、音がしそうなほど濃厚なそれ。  僕がこの時間に来るのを見越して、僕が部屋に入ったタイミングでの行為なのだろう。  しばらくの間呆然としてしまったけれど、見たくない現場を見せられて逃げようとした僕を呼び止め彼がそう言った。  彼の横で綺麗な顔をした男が勝ち誇ったような、嘲るような笑みを浮かべている。  明るい髪にカラコンで色を明るく見せている瞳。  よく見れば僕と似ていることに気付く人もいるけれど彼は気づけなかったようだ。 「僕の物は捨てていいから」  どちらの顔も見たくなくて身体の向きを変えながらそう告げる。半同棲に近かったから僕の日用品や服も置いてあるけど、それほど大切な物はない。  こうなることを見越してなるべく私物は持ち込まないようにしたのが功を成したようだ。 「ごめんね、お兄ちゃん」  彼とのキスシーンを見せつけた男、僕の実弟が嬉しそうに笑う。  口では謝っているけれど反省なんて全くしていないのが丸わかりだ。 「お兄ちゃん?」  彼の声に弟が無邪気な笑顔を向ける。 「そう、海から話聞いたことない?  弟の空の話」 「空の事なんて、わざわざ話さないよ」 「そっか、じゃあ名前言っても反応が無かったのはそのせいか」  思わず反応してしまったけれど、何も言うつもりもないし、何も聞きたくなくて2人を残して玄関に向かう。 「海、まって」  彼が僕を呼び止めようとするが今更だ。呼び止めて何を言うつもりなんだろう? 「お幸せに」  靴を履きながらそう告げるけれど、合鍵を持ったままなことに気づき急いでキーケースから外す。 「空に渡せば?」  言いながら鍵を放り、彼の意識がそちらを向いた隙に玄関を出る。  付き合い始めて半年。  2ヶ月ほど前から彼に請われて週末はこの部屋で過ごすようにしていたけれど、それも今日で終わりだ。  切ない。  悲しい。  悔しい。  淋しい。  諦めてはいたけど、こうなるだろうとは思っていたけど、それでもショックを受けないわけではない。  今度こそは、と毎回期待して、それなのに裏切られているのに自分の学習能力の無さが嫌になる。  空、僕の年子の弟。 「お兄ちゃんでしょ?」  物心ついた時には何かにつけてそう言われていた。  遊んでいても玩具は空が優先。  おやつもご飯も空が欲しいと言えば全てが空のものになる。  幼稚園でも小学校でも、友達ができてもいつの間にか僕の友達ではなくて空の友達になっていた。  習い事をしても空の方が出来が良く、僕はおまけ扱い。  小学校の中学年が過ぎると年子だった僕は空に身長を抜かれ、兄弟が逆転したと嗤われるようになった。  僕の出来が悪かったわけではない。  空が出来すぎたせいで僕は何をしても霞んでしまった。  それなのに、全てに恵まれているのに空は僕のものばかり欲しがった。  両親共に末っ子だった父母は、何をするにも空優先。自分達が兄姉から常に優先されていたせいで、年長者は下の弟妹の要求は全て叶えて当たり前だと本気で思っている人達。  彼らの兄姉は1番上はひと回り、1番下でも5つほど離れているので前提からして違うのに、子供でもわかりそうなことなのに、それを理解してくれることは無かった。  だから、中学生になる頃には諦めるしかなかったんだ。  そんな環境だったせいか、僕は将来を見据え、早く自立できるようにと、とにかく勉強を頑張った。  成績さえ良ければ選択肢は広がる。出来れば寮のある学校に入れるようにと目標を持って勉強をした。  複数の小学校から生徒が集まったせいで僕に話しかけてくれる人もいたけれど、友達を作っても空の友達を増やすことになるだけだと悟っていた僕は必要以上に人と接することもしなかった。  とにかく空から離れたい、その一心で頑張った。  それなのに友達も作らず、将来を見据えて頑張った自分に対して「空が海と離れたくないって言うから自宅から通える高校にしてね」なんて言われるとは思いもしなかった。  僕が行きたいと思っている高校が遠方なのは知っているくせに、それなのにそんなことを言うのは自分たちが空から離れたくないから。  可愛い可愛い末の息子は自分たちの目の届く所に置いておきたいから。  こんなに頑張ったのに、この学校でどうしてもこれを学びたいのに、どれだけ言葉を尽くしても両親には届かなかった。  だから高校も当然のように空と一緒。  兄弟が逆ならば違う学校を選ぶと言う選択肢もあったけれど、自分のいる場所に来られてしまったら避けようがない。 「空ならもっと上の高校にも行けるのに」と言っても「海と一緒がいい」と一蹴された。  どこに行っても〈海〉はいない。いるのは〈空のお兄ちゃん〉であって、僕が何をしても誰の目にも止まらない。  それでも、時々僕に興味を持って話しかけてくる相手はいた。  初めて〈空のお兄ちゃん〉ではない〈海〉として僕を見てくれたのは高校の先輩だった。  家に帰りたくなくて図書室で時間を潰すことの多かった僕に話しかけてくれた先輩は、僕の言葉を聞き、僕の気持ちを理解してくれた。  何をどう頑張っても全て弟に攫われてしまうとこぼした僕に、それでもきっと残るものがあると言ってくれた。  海が頑張ったからこの高校に入れたし、今も図書室で勉強を頑張っているからこうやって知り合うこともできたと。  頑張っても頑張っても認めてもらえなかった僕は、それだけで先輩を意識するようになってしまう。  空は、僕の背を追い越し平均身長をゆうに越している。  僕は平均には全く届かず、男子としては小さい方だ。  そのせいで女の子を好きになっても空と比べられるのだろうと思うと自信が持てず、かと言って同性を恋愛の対象に見ることもなく、いつか空に彼女ができれば僕の周りから興味を失うのでは無いかと、それだけを期待して毎日を過ごしていた。  そんな風に色々と諦めていた時に知り合った先輩に、僕が少しずつ惹かれていくのは必然。  別に恋愛対象として好きなわけではなかったとは思う。だけど、家ではお兄ちゃんだからと我慢ばかりさせられていた僕は、自分だけに向けられる感情が心地良くて、強要されていた〈庇護する者〉という立場を忘れ〈庇護される者〉としての振る舞いを覚えてしまった。  そうなると家での兄としての振る舞いの強要が苦痛で今まで以上に部屋から出なくなり、そんな風にしてしまったせいで空には〈何か〉気付かれてしまったのだろう。  当然、空は僕と同じ高校に入り、当たり前のように僕の弟であることを周知する。だけど空が入学してくることを見越して地味に地味に過ごしてきたから周知しようとしても誰それ状態だ。  それならばと何かと僕に付き纏っても、小学校や中学校の時と違い周りの反応は薄い。  今までみたいに空の関心を得るために僕に話しかけたり、ちょっかいを出すような相手なんてほとんどいないから、面白くなかったのかもしれない。  僕の気を引こうとするのはいつも空と関わりを持ちたい人ばかりだから、空が僕に付き纏えば僕の周りに人が増え、人が増えれば近い将来僕の傷が増えることになる。  そんなパターンを高校でも構築しようとしたのに上手くいかないせいで、空が苛立っているのは気付いてはいた。だけど、メンバーがあまり変わらない小中と比べれば高校は世界が広がるせいで、今までみたいに空が中心の世界を構築するつもりならもっと時間をかけるしかないだろう。  そんな風に安心していたんだ。  空と僕は、よく見れば顔のパーツひとつひとつがよく似ている。だけど、顔に性格が出るとはよく言ったもので、常に人に囲まれて楽しく過ごしている空は明るくて人の目を引くのに対し、常に目立たないよう誰にも見つからないように過ごしているその容姿にも影があるかのように、僕は誰の目にも止まらない。  高校でも空を囲む人達は徐々に増えていく。見目も良く、人当たりのいい空は少しずつ少しずつ自分のテリトリーを広げ、少しずつ少しずつ僕が兄だと言うことを周知していく。  常に人の目に映る空と違い、僕の場合は海は海でも陽の光の当たらない深海なのだろう。  だから誰からも認識されていないだろうと油断していたのが間違いだった。 「見付けた」  隠れて隠れて過ごしていたのに見つかるのは予想よりもはるかに早かった。  部活をしているわけでも無いのに校内にいるのだから、図書館や自習室にいる事なんて空にはお見通しだったはずなのに、それなのに今まで見つからなかったのは見つからなかったのではなくて、僕を油断させるために時期を見計らっていただけなのかもしれない。  空が僕を兄だと周知したせいで、僕の知らない空の知っている人たちにまで認知されてしまったのだろう。  その誰かから聞いたタイミングで図書室にやってきた空は見惚れるような笑みを浮かべていた。
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