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「髪、切ってください。」
「……は?」
目の前の若い男性が、『何言ってんだコイツ?』みたいな目で見てくる。
……無理もない。こんな夜にお店に来て、涙でメイクも崩れてくちゃくちゃな顔で、途中でヒールも折れて、乱れた身なりも整えないで。
そんな全身ボロボロな女が、いきなり髪を切れって。
どう考えても、正気じゃない。
「あの、えっと……閉店時間、過ぎてますので。」
「……」
「……それに、僕、アシスタント、なので……お客様に、髪を切ってと言われましても……」
それでも、今日、切ってほしいのだ。
今までの自分に別れを告げて、新しい自分に生まれ変わりたい。
ダメで、捻くれで、他人から敬遠される自分から、明るくて、思いやりがあって、誰にでも頼りにされるような、そんな自分へ。
そんな自分に変われば、もしかしたら、誰かに期待しても、うまくいくかもしれないって。もしかしたら、最後の希望を抱いていたんだと思う。
「……今日じゃないと、意味がないんです。こんな自分に、別れを告げたい。」
「……!」
「お金ならちゃんと、払います。倍払います。下手でもいいんです。髪、切ってくれませんか。」
どうか、お願いします、と頭を下げて、お願いする。
無理どころの話じゃない。はっきり言って迷惑行為だ。警察を呼ばれても仕方ないほどの。
それでも、哀れに思ったのだろうか。
目の前の彼は、私にどこか、同情してしまったのか。
「……分かりました。カットモデルとしてなら。」
「ほっ、本当ですか!?」
「……その代わり、いつどこで、誰に切ってもらったって、言わないでくださいよ。バレたらまずいですから!」
それに、切るだけですからね!カラーもシャンプーもしませんから!下手だって言われても責任取りませんからね!と、念に念を押されて頷けば、彼は着々とカットの準備を進めた。
どうやら店には、"アシスタント"の彼だけが残っていたみたいだった。
それよりもまず、と彼は私を施術するために椅子に座らせると、鏡のある方に向けるのではなく、足元へ跪いた。
「血、出てるので。手当します。触ってもいいですか?」
「え……悪いですよ。そこまでしてもらわなくて、大丈夫です。」
「……これは、美容師としてではなくて、ほっとけない世話焼きな一般人からのお節介として、黙って受け取ってください。……触られたくないなら、断ってくださってもいいですけど。」
「……!いや、あの……むしろ、申し訳ないんですけど……じゃあ、お願いします。」
そう伝えると、彼はいそいそと私の履いていたヒールを脱がし、破れたストッキングからのぞく怪我を手当し始めた。
「……素敵な、靴ですね。」
「……」
「あなたにお似合いの、綺麗なデザインだ。」
きっと彼は、気づいているに違いない。
この靴は、誰のために選ばれたものなのか。
彼の優しさが、彼の気遣いが、身に沁みて、また涙が出そうになる。
「どんな仕上がりにしますか?」
髪がお綺麗ですし、整えるくらいでも……と続けたところを、バッサリと「30センチ切ります」と答えると、彼はまたもや『何言ってんだ、コイツ』みたいな顔をして、聞き返す。
「ほ、本当に、30センチも切るんですか!?」
「はい。じゃないと、意味ないです。」
「も、勿体ないですよ、そんな。これだけ綺麗に手入れされている方、なかなか見かけないですし。ロングヘアも素敵ですよ?」
「いいんです。あなたみたいに褒めてくれる人がいるからこそ、いらない。」
「!」
何もかも、捨てたくなった。
"あの人"が褒めたこの髪も、友人だと思っていた、ただ私のことを知る人も。
それどころか、今までの人生だって、捨てたくなった。
だから私は、生まれ変わるんだ。
今日をもって、新しい"今野真冬"に。
「……分かりました。30センチってことは、顎舌2センチになりますけど。」
「はい、大丈夫です。そのくらいお願いします。仕上がりはお任せでいいです。」
「……本当に僕、ウィッグしか切ったことないですよ。」
「いいんです。お願いします。」
鏡越しに彼の目を見てお願いすると、しぶしぶ、という擬態が似合うような感じで動き出した。
全体の髪の毛をある程度短く切ってから、少しずつ顎下まで揃えて切っていく。
髪の毛をすいたり、左右の長さが均等か鏡を見て確かめたり。
私の髪の毛を切る彼の真剣な表情を、鏡越しにじっと見ていた。
「……そんなに見られると、やりづらいです。」
「あ……すみません。」
「いえ……その、手持ち無沙汰でしたよね。気が回らなくてすみません。タブレット持ってくるので、電子書籍でも見てください。」
「あ、結構です。」
「そ、そうですか……でも、あまり俺を見ないでください。ただでさえアシスタントでまだ切らせてもらったことない人間が切ってるんです。失敗したって、責任取りませんからね。」
「……ふふ、すみません。」
彼の自信のなさそうな声で話す言葉に、思わず笑ってしまうと、驚いた表情でこちらを鏡越しに見ていた。
「……ここに来て、初めて笑いましたね。」
「え……」
「ずっと、怖い顔してました。何があったか、大体察しつくんで、聞きませんけど。」
「……」
気づかなかった。
ずっと、怖い顔になっていたとは。
初対面の彼に心配かけまいと、振る舞っていたつもりだったけど。
……まぁ、入店してきた状態がボロボロだったくせに、何言ってんだって感じだけど。
「あの、ご配慮いただいて嬉しいんですけど、聞いてもらっていいですか?」
「……まぁ、あなたがどうしても話したい、と言うのであれば。」
「ふふ……はい。どうしても話したくって。というか、話したくても話せる人がいないんです。友達も彼氏もいないので!」
「……そんなこと笑顔で言われても、どう返したらいいか分からないんですけど。」
おっと、また困らせてしまった。
というか、気を遣わせた。
こんなんだから、人間関係いつも上手くいかないんだよ。
「す、すみません。面白くなかったですよね。」
「いえ……そんなことより、どうしても話したいことって?」
「あぁ、順追って話すと……」
高校時代、初めての彼氏ができたこと。
そして、大学の同期である、たった一人の親友に裏切られたこと。
それがよりによって、クリスマスイブで、私の誕生日デートの直前に、知ってしまったこと。
昔から人間関係で、上手くいった試しがなかった。
次こそはきっと、上手くいくはずだって、何度期待しても、上手くいかなかった。
だからもう、友達も、恋も、全部懲り懲りだ。
私は一人で、強く逞しく、生きていきたい。
でも、本当は、期待したい。
「……そう、だったんですか。」
「はい。なんかでも、めそめそ一人で泣いて、溜め込んでいるよりも、こうやって解決しなくても、誰かに聞いてもらえるってだけでいいですよね。ちょっと気分が晴れました。ありがとうございます。」
「……なら、よかったです。あなたが少しでも、元気になればそれで。」
「はい!ふふ。」
お兄さんは、きっと、何か思うことがあったに違いない。
それでも、同情したり、否定されたり、アドバイスされたり、そんなことじゃなくて、ただおとなしく話を聞いてくれたことが、ありがたかった。
今の私には、そんなことが必要なんじゃない。
寄り添ってくれる人が、欲しかっただけなのだ。
「あの、こんな感じで、いかがでしょうか。」
鏡を見ると、そこにはロングヘアだった自分ではなく、髪が肩から離れた、ボブの自分がいた。
「切りっぱなしの方が似合うんじゃないかと思って。すみません、お気に召さないなら、やり直しますけど……」
「いえ、気に入りました。お兄さん、アシスタントって本当なんですか!?今までで一番上手に切ってもらえた気がします!」
「ほ、本当ですか!?ありがとうございます!そう言っていただけると、自信つきます。」
「ふふ。私は、お兄さんの記念すべき、一人目のお客様ってことでいいです?」
「!……それは、もちろん。またいつでも、いらしてください。」
あ、でも、お店には内緒でお願いしますよ!まだ一人前じゃないし。切りたくなっても、あなたのタイミングでっていうのは、難しいかも……?
なんて、一人であたふたしていると、お兄さんは突然身につけていたエプロンのポケットからスマホを取り出して、SNSアカウントのQRコードを差し出してきた。
「これは……?」
「……いや、その、ナンパとかじゃなくて。あの、お店に連絡されても、困るので。このことバレたらまずいですし……」
「あぁ、なるほど。追加しますね!」
自分のスマホでお兄さんを友達登録すると、"綾人"という名前とお兄さんらしき人物が陽気にピースしている他撮の写真が出てきた。
「追加しました。"真冬"っていうのが、私のアカウントです。」
「真冬さん……追加しました。」
「ありがとうございます!」
そうして連絡先を交換し、同い年であることが発覚してからは敬語もはずし、お互いを呼び捨てで呼び合う仲になった。
それからは、驚くほど早く、距離が縮まった。
大学院と司法試験の勉強に勤しんでいる間も、暇さえあれば連絡を取ったし、綾人は綾人で仕事が忙しかったので、短い時間しか会うことはできなかったけど、たまにどこかへ一緒に出かけたり、ご飯を食べたり。
少し髪の毛が長くなったね、綾人はお酒あんまり飲めないんだね、なんて話をして。気がつけば、親友だったあの子のことも、大好きで仕方なかったあの人のことも、綺麗さっぱり気持ちの整理をつけられていて。
バカな私は、また誰かに期待したいと思っていた。また誰かを信じたい、今度こそうまくいく。
それを確信に変えてくれた綾人への気持ちが、少しずつ特別な方に動いて。
臆病な私は、またダメになるかもしれない、と不安になったけど、綾人なら大丈夫かもしれないって、思うようになって。
その過程でお付き合いすることになって。
倦怠期を迎えて、抜け出せないままになっていた。
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