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「本当に来たんだ」  翌日、玄関を開けた円は真琴を見るなりそう言ってきた。 「そんなこと言わないでくださいよ。今日からあらためてよろしくお願いしますね」  円は肩をすくめると、三和土に置いてあったブーツを履いてドアを施錠した。それから真琴とともに庭を出る。  平日昼下がりの住宅街に人の気配はなく、時折近くの道路を行く車の走行音だけが聞こえてきた。今日もまた一軒家の屋根越しにマンションの屋上に建つ給水塔がちらりと見えたが、さほど憂鬱にはならなかった。休学中で停滞しているという気持ちも薄れており、前に進んでいるという実感が心を満たしていた。  飛躍というほどではないが、少しずつ、前へ。 「そういえばどうします?」 「何を?」  訊ね返す円に真琴は微笑みかけると、「あれですよ。能力の名前。いちおういくつか候補を考えてみたんです」 「別に名前がなくても――」 「私が困るんですってば。ええっと……やっぱり指パッチン、じゃかっこ悪いですよね。あとは横文字なんておしゃれじゃないですか? 時間が巻き戻ってるときに見えるあれがあるじゃないですか、オーロラ! だからオーロラなんとか……みたいな感じとかよくないですか?」 「オーロラ、の続きは?」 「まだ考え中です。あとはそうですね……過去視(かこし)なんてどうでしょう?」 「過去視か……」円はうなじに手を当てると、「じゃあそれで」 「本当ですか? 実は私もこれが一番しっくりきたんですよ! 円さんもそう思います? 決め手はなんでした?」 「一番文字数が少ないから」 「もう! 真面目に選んでくださいよ!」  食ってかかる真琴の顔が円の背中にぶつかる。前を歩いていたところを、彼女が突然立ち止まったのだ。 「着いたよ」鼻面をおさえる真琴に円が言う。  隣人が指さした先にあったのは両隣を大きな家に挟まれた一軒家だった。瀟洒、と言えば聞こえはいいが、真琴は建ち並ぶ三軒を見て屈強な刑事二人に連行される貧相な身体の犯人を連想してしまった。 「ずいぶん近所なんですね」 「言わなかったっけ、依頼人は瑞野に住んでるって? それに仕事は大抵徒歩圏内のものしか受けないよ」 「バスとか電車は使わないんですか? 車も?」訊ねながら、真琴は隣家に駐車スペースや車庫の類いがないことを思い出していた。 「持ってないよ。ついでに免許も。公共の交通機関もほとんど使わないんだ。お金がかかるからね」  なら煙草をやめればいいのに。思わず口に出かかった言葉を真琴は慌てて飲みこんだ。円にとっての喫煙は単なる趣向ではなく、能力……つまり過去視を終えたあとで精神に均衡を取り戻させる、ある種の儀式的な役割を持っていることを知っていたからだ。 「最後にもう一度確認させてもらえないかな?」依頼人宅の呼び鈴の前で円がそう訊ねてきた。「この仕事……というより、過去視にかかわるってことは危険を伴うってことだし、そうじゃなくても後悔することが沢山あるかもしれない。きみがそうならないように努力はするけど、それも絶対じゃない。それでも、本当にいいんだね?」  真琴は黙ったまま頷いた。決然と首肯できたと言えば嘘になる。それでも目的を遂げるためには過去視は欠かせない存在だとも思っていた。  しばらくこちらを見つめたあと、円もまた無言のまま頷き返した。ぎこちなくはあったが、その口元にかすかな笑みが浮かんでいることに真琴は胸を撫でおろした。  険悪さが漂う時間は終わり、ここからは関係を修復する時間がはじまったことを感じ取っていたのだ。折れた骨が治るときのように、真琴は円との絆は前よりも強くなっていくことを望んだ。  円が門柱のボタンを押すと、閑静な住宅街に来訪を知らせるチャイムの音が鳴った。
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