プロローグ

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 まるで七色のオーロラに包まれているような光景だった。  虹色のひだが頬を撫でるなか、かざした手の平をすり抜けて一輪挿しが床に叩きつけられる。  しかし手の上には、同じ一輪挿しが乗っていた。その滑らかな感触が現実のものだと理解した直後、彼女は意識を失った。  時間は、十日前にさかのぼる。    ***  自分の住んでいる住宅街が閑静な、というより、世界から忘れ去れたような場所にあるように思える。いまはそのことが何よりもありがたかった。  時間までもが凍りついてしまっているように、自室で動くものは何もなかった。  ただ、カーテンの隙間からうっすらと覗く光だけが、朝の訪れを告げていた。  今泉真琴(いまいずみまこと)は布団から起き出すと、素足をフローリングの床におろした。足の裏を伝わるぬるさに眉をしかめる。まだ肌寒さを感じさせる春を置き去りに、季節が夏に向かって少しずつ進んでいるのを物語っていたからだ。  遮光カーテンを開けると、窓の外とを隔てているのは薄手のレースカーテン一枚だけになった。その存在が空中ブランコの安全網のように思える。  次いでリネン地のそれを握りしめると、深呼吸を一つしたあとで両腕を広げた。白んだ空を背景に映った自分の姿を追い払うよう窓を開けると、脇に置いてあったサンダルを無視して、パジャマの裾を踏みながら裸足のままベランダへと出た。  遠くの道路から時折聞こえる車のエンジン音だけが耳鳴りをかき消すような、静かな朝だった。  真琴はベランダの桟に両腕をついて頬を乗せると、自宅の二階からの景色を眺めた。同じような二階建ての一軒家が両側で軒を連ねる目の前の道路は、車一台がやっとすれ違えるほどの広さしかない。  向かいの家の屋根越しに一棟の五階建てマンションがあったが、彼女はなるべくそちらが視界に入らないようにした。幼い頃は、屋上に据えられた給水塔を見ては宇宙船のようだとよくはしゃいでいたものだった。  そのとき、ふと鼻腔をくすぐる香りがした。真琴を含めて家族は誰も吸わなかったので、かえって気づくことができたのだろう。それだけかすかな、煙草のにおいだった。  風上を振り返ると、隣家のバルコニーが視界に入った。真琴がいま立っている一畳ほどの大きさとは違って広々としており、彼女が生まれる前は、隣家の家族がそこに集まってバーベキューなどをしていたそうだ。  いまではそうした賑やかさもかつてのものとなり、枯れた観葉植物の鉢植えだけが並んだその場所に若い女性が一人で立っていた。  真琴と同じように桟に身を預け、肘を立てた右手の指で煙草を挟んでいる。そよ風が吹いて先端の火が赤さを濃くすると、先ほどよりも幾分強く、煙草のにおいが届いてきた。  無意識のうちに身を起こして目をこらしていると、フィルターの先の半分以上が灰に変わっているのがわかった。巻紙の支えを失って脆くなった灰が徐々に頭を垂れてゆき、とうとう根元からぽきりと折れる。 「あ!」  真琴がそう声をあげるのと、落ちた灰の下に携帯灰皿が差し出されるのとはほとんど同時だった。灰のかたまりを過たずポケットの中に落としこむと、女性はすっかり短くなった残りの部分もそこへ押しこんだ。  携帯灰皿のボタンを留めた瞬間、朝日を浴びて女性の左手首が光る。  反射と反射の合間に姿を見せたのは銀の懐中時計だった。本来はズボンのベルト通しや上着のボタン穴に通して使うはずの鎖を、彼女は自らの左手首に巻きつけて懐中時計を固定していた。  真琴のあげた声に気がついたのか、あるいは最初からその存在を知っていたのか、女性は桟に寄りかかった姿勢のまま、眠たげなまぶたの下にある瞳をこちらに向けてきた。 「やあ、おはよう」  女性の声はその視線と同じように気だるげでひび割れてもいたが、それでいて真琴の耳にはっきりと届いてきた。  呼びかけられて身を固くした真琴は、いつの間にか握りしめていた桟から手を引き剥がすと、開け放していた窓から飛びこむように部屋の中へと戻った。そのままのいきおいでベッドに潜りこむ。  丸めた身体の内側で高鳴る鼓動に邪魔されながら耳を澄ましたが、閉め忘れた窓の外からはもうなんの物音も聞こえてこなかった。
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