Ⅳ 思い出と宝石

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 こんなにひどい二日酔いになるなんて、俺も衰えたもんだな。西田保(にしだたもつ)は自宅リビングのソファに横たわりながらそう思った。  九十度傾いた視界には虹色の光がちらつき、体感的には夕方から夜へと変わろうとしている時刻にもかかわらず、外からは穏やかな日差しが降り注いでいる。おまけにその陽光の下、庭のほうを向いて掃き出し窓の桟に並んで腰かけているのは自分と、三年前に死んだ妻の背中だった。  隠居生活に入る前は事あるごとに飲みに行き、うわばみほどではないが経験に裏打ちされた自信も持っていた。そんな自分が酒に飲まれてこんな幻覚まで見てしまうとは。  だが身体が衰えているという事実に衝撃を受けるよりも先にまぶたが落ちはじめ、自分と妻の姿が暗闇に覆われようとしていた。  身体も動かないほどの酩酊感が続いていたが、そんな西田を本当の意味で包みこんでいたのは幸福、それからかすかな後悔だった。  時間は、半月前にさかのぼる。    *** 「冷えてなくて悪いね」  依頼人の西田はそう言って、円と真琴の前にあるロウテーブルにペットボトルのお茶を置いた。 「若いし、ジュースのほうがよかったかな?」 「いえ、お構いなく」  円がそう言ったきりお茶を飲む素振りを見せなかったので、真琴も手を伸ばしづらかった。  そわそわと落ち着かない気持ちのまま、真琴は西田家のリビングを見まわした。  日当たりの悪い室内は片付いていたものの、どこか生活感に欠けている。かといって物がないというわけではなく、むしろ棚や調度品の中には色々と詰めこまれていた。壁にかかった大判のカレンダーに書きこまれた赤い丸だけが、男性が一人で住むこの家に時間の流れを与えているように思えた。  いつの間にか観察に没頭しすぎたせいだろう。西田に視線を向けたまま、円が真琴の太腿をぽんと叩いてきた。 「早速ですが、仲介した者からご依頼の内容は遺失物の捜索とうかがいましたが」 「これなんだけどね」  そう言って西田はシャツの胸ポケットから一枚の写真を取り出した。円が受け取ったそれを横から覗きこむと、そこには初老の女性が一人で写っていた。 「奥様ですか?」  西田は頷くと、「三年前に病気でね。で、ネックレスをかけてるだろ? それを探してほしいんだ」  女性の首元で、大きく青みがかった乳白色の宝石を中心に据えた銀の装飾が、照明やカメラのフラッシュを受けていくつも星を瞬かせていることに、真琴は言われる前から気づいていた。 「この写真以外に手がかりはありますか?」 「それだけだね」 「ほかに奥様が写っている写真は?」 「それならアルバムがどこかにあったはずだな」  ちょっと待ってて、と西田はリビングを出ていった。 「すみません、やっぱりきょろきょろするのはよくなかったですよね」二人きりになったところで真琴はそう切り出した。 「そんなことないよ。調べないことには何もわからないからね。けどタイミングは選ばないと」  円はそう言って腕を組んだ。手持無沙汰となった真琴はテーブルに置かれたままの写真を手に取った。  背景と服装から察するにパーティか何かだろうか。西田の亡妻は上品なベージュ色のドレスを着て、ふんわりと顔の両側を包む髪のあいだで笑みを浮かべていた。 「きれいな人ですね」 「そうだね」写真に一瞥もくれることなく円が言う。「カメラマンの腕がいいのもあるのかも」 「西田さんが撮ったのかな?」  この質問には答えず、円はゆっくりと腕をほどいた。それと同時に西田が一冊のアルバムを抱えて戻ってきた。 「待たせたね。これしか見つからなかったよ」 「どうも。拝見させていただきます」 「そっちはもういいかな?」  すぐに理解できなかった真琴だったが、西田に指をさされたことで写真を持ったままであることに気がついた。 「すみません!」そう言って写真を返したものの、気まずさが抜けきらない真琴はこう続けた。「それにしても、綺麗なネックレスですね。その宝石はなんなのかな? アクアマリン……それともサファイアですか?」 「ブルームーンストーンだよ」  耳馴れない名前に首を傾げる真琴をよそに、西田はこう続けた。 「六月の誕生石なんだ。だから今月中に見つけてほしいんだけど、できる?」  西田の問いに、つい壁にかかった大判のカレンダーを見てしまう。  いまはまだ梅雨入り前の爽やかさが残る六月の第一週。一ヶ月弱という期限が長いのか短いのか、真琴にはその判断がつかなかった。  傍らに目をやると、円はアルバムをじっと見つめながらページをめくっていった。一ページにつき三、四枚のL判写真が貼ってあったが、贔屓目に見てもお粗末なもので、露出オーバーやピンぼけしたものが目立っていた。出来のせいでそう見えるだけなのか、たまに被写体として登場する西田の妻も不機嫌そうだ。 「円さん?」いっこうに返事をしようとしないのを見かねて真琴は声をかけた。 「ああ、失礼」円がアルバムから顔をあげる。「今月中の解決をご希望ですね。お任せください。では本契約ということで、こちらに一筆お願いします」  そう言って円はパーカーのポケットから折りたたんだ一枚の紙を取り出した。 「結構しっかりしてるんだな」 「金銭のやりとりが発生しますからね。ただし、報酬をいただく以上は全力であたらせていただきます」  西田が直筆でしたためた契約書を受け取り、円は頷いた。 「ところで、奥様は貸金庫などを使われてはいませんでしたか?」 「そういうのはなかったね。遺産整理でひととおり口座も解約したからたしかだよ」 「なるほど。では、お宅を拝見しても?」 「俺もこの家の中ならずいぶん探しはしたよ。でもまあ、別に構わないけど」  円は礼を言うとソファから立ち上がった。真琴も契約が交わされているあいだに目を通していたアルバムを閉じてそれに続く。過去視さえ使えればきっとすぐに見つかるだろう。  解決に向けて自ずと期待が高まるなか、西田もまた腰を上げる。それから家の中を調べているあいだ、彼は終始二人の後ろをついてまわった。  こんな状況でも円は過去視をつかうのだろうか。だがひやひやしながら状況を見守る真琴をよそに、彼女はいっこうに指を鳴らす素振りを見せなかった。  西田の家はリビングと台所などの水まわり以外に和室のある一階と、三畳ほどの部屋が三つある二階という、近所の豪奢な家々とくらべて手狭なものだった。それらを移動しているあいだ、真琴は円が過去視を使うつもりがない、というより使えないということがわかってきた。 「あの、西田さん」やがてすべての部屋を見てまわったあと、円はそう切り出した。「申し上げにくいのですが、彼女と二人だけでお宅を調査させてもらえませんか?」  その口調と態度から、円も後ろをついてくる西田に気を揉んでいたのだろう。だが彼はきっぱりと首を横に振った。 「悪いけどそれは勘弁してくれ」言葉こそへりくだっているようだったが、西田の口調には有無を言わせないものがあった。「あんたらを信用したくないわけじゃないけど。ほら、仲介やのキムさんって言ったっけ。あの人の風体を見たら……どうもね」
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