Ⅳ 思い出と宝石

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 円の家のリビングには、生前の明日原ギンが使っていたダイニングテーブルが据えられたままになっている。人が二人横並びになれば肩が触れ合うほど小さなものではあったが、晩年ここに一人で暮らしていたギンにとってはさぞ広いものに感じたことだろう。  真琴のそんな物思いは、天板の上でひしめき合っている食べ物を前に吹き飛ばされていた。そのそばにある棚の上ではほんの数週間前、過去視のなかで真琴が空中でつかみとった一輪挿しに紫のクロッカスを活けられている。 「いらっしゃい。待たせて悪かったね」  背後からそう声をかけられ、真琴は慌てて一輪挿しに伸ばしていた手を引っこめた。 「夕飯の買い出しに行くって言ってましたけど、まさかこれを買ってきたんですか?」  真琴が指さした先には、数々のインスタントフードが山をなしていた。カップ麺にレトルトカレー、冷凍たこ焼きから果ては値引きシールの貼られた菓子パンまで揃っている。 「できあいのものばっかり……」 「好みのものがなかった?」円が首を傾げる。 「いえ、てっきり食材を買ってきて一緒に料理するものだと思ってました」  円は自分を指さすと、「料理できるように見える?」  真琴は隣人をまじまじと見つめてからゆっくりと、だがはっきりと首を横に振った。そんな彼女を見て、円がくすくすと笑う。 「黙ってても正直者だね、真琴ちゃんは」 「褒めてます、それ? 円さんこそ、もっと自立してる人だと思ってました」 「なら真琴ちゃんはどうなの? 料理できる?」 「で、できますよ! お米ぐらいなら……炊けます」  尻すぼみになりながら、真琴は持っていた紙袋に片手を差し入れた。最初に振れた布地のエプロンは袋の中で脇に寄せた。このやりとりのあとで身に着けるのは、過度な期待をしていたことを知られてしまうようで恥ずかしかったのだ。 「筑前煮です、母から。同じようなもので悪いけどとも言ってましたけど」エプロンの代わりに取り出したプラスチック容器を手に真琴は言った。 「いや、大歓迎だよ」  言いながら円が目を輝かせる。無邪気とさえ言えるその表情を見るのがなんとなくはばかられて視線を逸らすと、食材のなかにカップ麺が置かれていることに気づいた。 「とりあえずお湯、沸かしましょうか」  母親が作った煮物を、円はほとんど一人で平らげてしまった。真琴はそれでよかった。自分は普段から食べ飽きているものだったし、細身の見た目にそぐわぬ旺盛な食欲を見せる円を眺めているだけで満たされた気持ちにもなったからだ。  やがて限界を迎えた胃袋を抱える二人の前には、なおも大量の食料が残っていた。結局それらはそのまま真っ直ぐ円の家の冷蔵庫行きとなった。  しばらく買い出しに行かなくてよさそうだよ。そううそぶく円の表情も、どこか途方に暮れているようだった。  片付けのあとは、余ったお湯で淹れたインスタントコーヒーの香りと沈黙ともに食後のひとときを過ごした。使い古したカップの中身をすする以外は、壁にかかった時計の針だけがかちこちとたてる音しかしなかった。  喫煙者としての定石は踏まないのだろう。円は食後の一服どころか懐から煙草の箱を取り出すこともしなかった。  初めて過去視を目撃したときのことがあったせいで、真琴は正直このリビングに行くことを少なからず躊躇していた。だが彼女はいま、そのときの出来事がこの食事を通して味わっている穏やかな幸福感によって包みこまれていくのがわかった。その下ではこの場所で過去に感じた驚きと恐れがいまも息づいている。  だが思い出とはペンキで上塗りをしていくようなものではなく、過去視のときに漂うあの七色のオーロラのようなヴェールを幾重にも重ねていくことで形作られるものなのではないか。そう考え、受け入れることで、真琴はこのリビングにまた身を置くことと折り合いをつけることができていた。  ここはおばちゃんのいた場所でもあるんだ。  飲み馴れないコーヒーの香りを嗅ぎながら真琴は思った。思い出の層を一枚ずつめくる頭の中のイメージは、そうした発想を彼女にもたらしていた。  同じ二階建ての一軒家に住む真琴も両親がでかけたときなどは一人きりで過ごすことがあったが、それはこの家の状況とは根本的な違いがあった。  留守番をしているのは一時的なもので、両親はいずれ真琴のところに帰ってくる。だがギンや円が住むこの家には来客こそあれど帰ってくる人間がほかにはいないのだ。彼女たちと隣り合っているのは孤独だけなのかもしれない。  流しの下の電灯だけがついた台所、角が死角になっている階段、それに夜闇で覆われた庭先。かつてのギンの、そしていまは円の同居人である孤独は、そのあちこちに潜んでいた。  きっと由紀もそうだったんだ。真琴は遠くに去っていった友人のことを思った。たちのぼる湯気の向こうにその顔を描こうとしたが、目鼻立ちどころか輪郭さえもはっきりしなかった。  ふとカップから顔をあげると、テーブルの向こうに座る円と目が合った。自分といることが彼女の孤独を少しでも癒せているのかどうかはわからなかったが、少なくとも真琴自身は彼女に救いを見出すことができた。
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