Ⅳ 思い出と宝石

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 それからの二週間、真琴は毎日のように円の家に通った。  本格的な梅雨入りを前にたまっていた洗濯物を大きなバルコニーに干し、引きずった掃除機であちこちの塵や埃を吸ってまわった。けして多くはない小遣いを崩してスーパーで食材を買い、台所を借りて料理もした。備蓄用のおかずを作るのは料理に不馴れな真琴にとって簡単なことではなかったし失敗も多かったが、少なくとも洗濯ばさみに吊るす円の立派な下着を自分のものとくらべる時間よりも有意義なものに思えた。  それでも円の家の有様はそこまでひどいものではなく、最初の三日が経ったあとは家事に追われることもなくなっていた。そうしてたれこめていた雲から最初の雨粒が落ちてくる頃には、本を読んだり遅れていた勉強を進める余裕すら生まれるようになっていた。  少し蒸し暑くはあったが、穏やかな日々だった。二人で向かい合って座るテーブルではともに食事をするだけではなく、お互いに思い思いのことをして過ごしたりもした。  そうした心地よい静寂を破ったのは一本の着信だった。数式を書きこんでいたノートから顔をあげると、パーカーのポケットから携帯電話を取り出す円の姿が視界に入った。  真琴にはそのことに落胆した。なぜかはわからなかったが、それまでこの隣人をこうした文明の利器と切り離して考えていたからだ。  円は手馴れた様子で着信をとると、受話口の相手といくらか言葉を交わした。それから携帯電話をポケットにしまい、こちらに向きなおる。 「例の探偵から連絡だ」円は言った。「西田さんの身辺調査が終わったらしい。これから落ち合うんだけど、どうする?」  真琴は無言のままノートを閉じた。それを了解の意志と受け取ってくれたのだろう、円も頷いてみせる。二人はそのまま家を出ると、雨足が強くなっていくなか探偵との待ち合わせ場所に向かった。  その喫茶店は市内を南北に走る産業道路のそばにあり、先に着いたのは二人のほうだった。四人掛けのボックス席、円は奥の窓際を真琴に譲ると、自身はその隣に座った。  探偵とはどんな人物なのだろう。格子状の木で組まれた窓枠越しに外を眺めながら、真琴はそんなことを考えた。  雨粒が水溜まりに作る波紋を眺めていると、鹿撃ち帽をかぶった世界一有名な探偵の姿をつい思い浮かべてしまう。さすがにそんな仮装じみた格好はしてこないだろうが、背広かライダースジャケットなどが妥当な線ではないだろうか。  いずれにせよ落としどころを探る真琴の脳裏に浮かぶ探偵の姿は、俳優と見紛うようなすらりとした美青年だった。 「あ、来た」  なかば妄想とも言える思考にとらわれていたせいだろう。円の言葉に、真琴ははじかれれるように顔をあげた。  はたして、そこに立っていたのは一人の太った男性だった。  泥のはねたスニーカーは年季が入っており、もとの色がどんなものなのかがわからない。脱色した薄青色のジーンズは肌にはりつくようなサイズで、脛や太腿の形がくっきりとあらわれている。唯一、上半身を包む無地のTシャツだけが抜けんばかりの白さで際立っていた。  長髪が覆いかぶさるこめかみから滴った汗を近所の銭湯の名前が印刷されたタオルで拭うと、男性は対面のソファの背もたれとテーブルとのあいだに身体をねじこんだ。 「やあ六黒氏」 「ひさしぶりだね」 「そっちの子は?」 「お隣に住んでる真琴ちゃん。色々あって仕事を手伝ってもらってるんだ」 「若いね」傍らに立てかけてあったメニューを手に取りながら男性が言う。「いくつ?」 「十六歳……です」 「嘘! まじかよ。ってことは女子高生? 六黒氏、犯罪だろこれ」 「テンションあがりすぎ」と、円は真琴に向きなおると、「ああ、ごめんね。これが例の探偵。ちょっと騒がしいけど、まあそれなりに役に立つから」 「道具扱いか。ひどいな。ああ、はじめまして。探偵やってる東雲竜司です」 「よろしくお願いします」言いながら、つい身体の前を両腕で抱くように覆ってしまう。 「もしかして、嫌われた?」東雲が円に訊ねる。 「素直でいい子でしょ」と、円。「で、早速だけど調査結果を教えてくれないかな?」 「オーケイ。ただちょっと腹減ってるんだよね」そう言って東雲は呼び出しボタンを押し、やってきた店員にこう言った。「ええっと、クリームソーダとミルフィーユのセットを。それから網焼きチキンサンドをマスタード多めで、こっちのナゲットとポテトも一つずつください。できた順番で持ってきてもらっていいです」 「ああ、あと伝票は別々でお願いします」東雲の注文をとった店員を呼び止め、円はそう付け足した。 「つれないな、六黒氏。たまにはご馳走してくれたっていいんじゃない?」 「それは調査の出来次第かな」  東雲は肩をすくめると、傍らに置いていたリュックサックを開いてA4サイズの封筒を取り出した。 「約束のものは?」封筒を顔の横に掲げながら東雲が言う。  円は短くため息をつくと、パーカーのポケットから茶封筒を取り出した。  はたして探偵に渡す依頼料とはどれぐらいの額になるのだろう。真琴はそれを見ながら思った。法外というほどではないだろうが、けして安くはないのかもしれない。  相場がわからないまま見守る真琴をよそに、東雲が受け取った封筒を開ける。そうして中から取り出されたのは、数枚のカードだった。
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