Ⅳ 思い出と宝石

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 リビングでの過去視を終えてしばらくすると、トイレの水を流す音のあとで西田がリビングに戻ってきた。 「待たせたね。それじゃあ――」  依頼人のその言葉を遮るように円が手をあげると、「その前にお手洗い、お借りできませんか?」  言いながら、円がこちらをちらりと見やってくる。やるしかない、覚悟を決めた真琴はかすかに震える声でこう続いた。 「ず、ずるいですよ、円さん! 私だってずっと我慢してたんですから!」 「こういうのは年功序列じゃない?」 「年で順番を決めるなんて横暴です! こっちだって限界なんですから!」  円と真琴は同時に立ち上がると、我先にとリビングを出て廊下に面したドアノブをつかんだ。 「あの、トイレ使うのはいいんだけど一人ずつで……」 「すみません。ちょっとはずしていただけませんか?」円がリビングから顔を覗かせる西田に言う。 「もしかして見張るつもりですか? うら若き乙女たちのあられもない音を聞くつもりなんですか?」  真琴のこの言いがかりが決定打となったのだろう。西田は顔を引っこめると、リビングのドアを閉じた。 「とりあえず、過去視二回分の時間は稼げたかな」円が張りつくようにしていたトイレのドアから身を離して言う。「収穫はなかったけどリビングでも過去視が一回できたし、これは幸先いいね」 「かなり強引でしたけどね……ああ、もう! 恥ずかしくて死にそうです!」 「それじゃあ、大きいほうの用を足すって設定はやめておこうか。真琴ちゃんのおかげで聞き耳をたてられる心配もなさそうだけど」 「円さん!」  声を落とすことに徹していたものの、思わず声を大きくしてしまう。そんな真琴に対して、円はかすかに持ち上げた唇にいたずらっぽく人差し指をそえた。 「とにかくはじめようか」  円はそう言ってトイレの前から廊下を奥へと移動した。真琴もそれに続く。そうして突き当たりの壁を背にすると正面に玄関、左手に和室を見ることができた。円いわく、移動に大変な危険を伴う過去視では、その場にとどまったままいかに多くの物事を見聞きすることができるかが重要なのだそうだ。 「ここでも奥さんが存命中だった頃を探ってみようか」 「となると、三年前から四年前のどこかですね」 「その一年間のさらに前半のどこかかな。東雲さんの報告書だと、奥さんはここに来て半年も経つ頃には入退院を繰り返してたらしいから」  円は何かを見定めるように虚空に目を向けた。探るべき時間帯を見極めようとしているのだろう。  その様子は魚釣りのようにも見えた。波の立ち方から潮目、魚影の有無などで餌を投げるおおよその位置はわかっているが、大物を釣り上げられるかどうかはやってみないとわからない。やがて彼女は、見えない糸を摘まむように重ねた指をはじいた。  この音を西田は聞きつけただろうか。増幅する反響を耳にしながら真琴はそう考えた。過去視をしているあいだは時間の言わば本流から切り離される状態にあり、その支流への同行が許されるかどうかは能力を発動するきっかけ、つまり指を鳴らす瞬間に立ち会っている必要がある。そのこと自体は真琴も身をもって味わい、充分に理解しているつもりではあったが、それでもまだ円ほど堂々としていられなかった。  そこには埒外な現象にかかわっていることへの戸惑いよりも、誰かの秘密に踏み入ろうとしていることへの後ろめたさがはたらいていた。  真琴の懸念をよそに、寄り添うように立つ二人の周囲を虹色のオーロラが包みはじめた。その薄いヴェールのむこう、和室の奥から一人の女性がこちらにやってくるのが見えた。  西田の亡き妻だった。リビングで一回目の過去視をしたときは隣の台所で野菜を切る後ろ姿しか見えなかったので、写真以外で正面から顔を拝むのはこれがはじめてだった。彼女はエプロンで手を拭きながら和室を横切ると、真琴たちの脇をすり抜けるようにして廊下から玄関へと向かい、訪ねてきた配達員から荷物を受け取った。  文字通り日常の一コマを切り取った光景だったが、真琴の目にはこれが新鮮に映った。というのも、それまで写真で制止した姿しか見せなかった西田の妻が生活し、息づいている様子は、過去という時間軸でありながら生命力に満ちあふれていたからだ。  彼女はサインを受け取った配達員を見送ると小包を手に廊下を引き返し、真琴たちの手前を折れてリビングへと入っていった。  ふたたび指を鳴らす音が響く。  その直後、まるでシャボン玉がはじけるように過去が消え、もとの時間が舞い戻ってきた。
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