秋の日

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 土を蹴って駆け回る足音、笑い声、泣き声、怒鳴り声、叫び声、よくわからない流行歌、スピーカーから発せられる音割れした棒読みのアナウンス。  ガキが多い。ガキだらけだ。いったいぜんたいどこにこんなに隠れていやがったんだって程に。 「そういや今日は奥さんは?珍しいっスね。いつもイベントの手伝いは必ず来てくれるのに」 「あぁ、なんか今朝から体調崩してるみたいでな。今日は家で留守番だ」  ふぅん、と特段興味もなさそうに近藤が相槌を打つ。  十一月も中旬に差し掛かろうというのに、太陽が異様に強く照りつける土曜の正午。いつもだったら我ら兜町ニードルズが練習をしている時間帯であるこの小学校の校庭には、町中の子供という子供がギュウギュウに集っていた。 「おいちゃん!ハンバーグ一本ください!」  三十二歳の俺に無邪気にそう叫んで、握りしめていた百円玉を嬉しそうにこちらに差し出すガキに複雑な笑顔を向けつつ、竹串に差したペラペラのハンバーグをそれと交換してやる。坊やは受け取ったとほぼ同時に、隣にいる母親へとそのハンバーグ串を押し付け「クジ!クジ引く!」と興奮気味に叫ぶ。俺の隣に立つ後輩の近藤が大量の空クジで満たされた段ボール箱を、取りやすい角度まで傾けて引かせてやる。俺はその間に、また次のチビの小遣いをハンバーグに交換してやる。  目の前のチビの後ろに続く行列は果て無く長い。この季節外れの真夏日に、しょぼいハンバーグ串の屋台がこうも大盛況なのは、何より隣の近藤が担当しているクジのせいだろう。 『沖縄旅行が当たる!』そう書かれた段ボール箱の中には、何千何万と知れない大量のクジが詰め込まれている。そのほぼ全てが空クジで、当たりは沖縄旅行の一枚だけ。しかし、逆に言えば確実に一枚は沖縄旅行が入ってはいるのだ。たった百円で自分のガキにおやつと遊びを与え、しかも僅かながらでも旅行券まで当たる可能性があるとなれば、並んででも一回引いとくか。と、考えた親達の数がこの行列の長さだ。 「しっかし、監督も太っ腹スよねー。自腹で旅行券買うなんて」 「最後まで当たりが出なかったら自分が奥さんと行く気なんだろ」  まだまだ大量にクジの詰まった箱を横目で見ながら答える。 「その時は俺らで残りのクジ全部買って、当てちゃいましょう」 「そんなことしたらまた殴られるぞ」 「いくら少年野球の監督ったって、この令和の時代にそんなことしたら体罰で大炎上ですよ。もう俺らのガキの頃とは時代が違うんですから」 「コーチ相手でも体罰って言うか?」 「じゃあパワハラ……?」 「どうだろ。これ仕事じゃないしな」  などと無駄口を叩きながらも、俺達の手は自動的に動き、目の前の客を次々と捌いていく。正直、いい加減しんどいが、この町にまだこれだけの子供がいることには少しだけ希望が持てる。 「あー残念!ハズレっス!……あっ、あとこれ!僕ら兜町ニードルズってチームでいつもはここで野球やってるんで、見学はいつでも大歓迎なんで、興味あったらきてくださいね!」  近藤が人懐っこい笑顔で親子に部員募集のチラシを渡していく。もう百枚近くは捌けただろうか。せっかくの休日に、炎天下の中こんなに頑張っている俺たちの労力が無駄にならないことを祈るばかりだ。  時代が違う。それは少年野球の世界にも如実に現れていて、俺や近藤が選手として所属していた頃のニードルズは低学年のみのBチームを持っていたし、この兜町には他に三つのチームがあり、小規模ながらもリーグ戦のようなことさえやっていた。それが今や、この町に残った少年野球チームは我がニードルズのみ、そしてそのニードルズも慢性的な部員不足に悩んでいて、現在の六年生達が卒業してしまうとついに九人を切ってしまう。六歳児の新一年生でも入部したら即レギュラーという二十年前では考えられない状況に陥ってしまっている。そこで監督の考えた起死回生の一手がこの秋祭りの出店だった。ハンバーグで子供を釣り、沖縄で親を釣り、釣り上げた親子にチラシを持ち帰らせる。とにかく数を打つ、打って打って打ちまくって勝利を手繰り寄せる。これが創設当時からのニードルズ野球の伝統だ。  ほとんど無意識にハンバーグと百円玉の交換を繰り返す。まだまだ列は途切れそうにない。少子化が叫ばれて久しいが、まだまだこの田舎町にもこれだけの子供がいる。なのに野球少年はどんどん減っている。噂では昨今の野球人気自体は再びかつての隆盛を取り戻しつつあるという。なのに誰も俺たちの元には来てくれない。どうして、誰も。  近藤のダンボールからも次々とクジが引かれていくも、当然のようにハズレばかり。義務的にチラシを渡しちゃあいるが、正直あまり手応えも感じていない。それでも俺たちには打ち続けること、空振りでもスイングし続けることしかできない。俺と近藤の間に置かれた大当たり用のハンドベルを高らかに鳴らすその瞬間まで、俺はハンバーグをチビたちに手渡し続ける。 「ヒロくんっ」  果てない作業と日光により、ふわふわと遠くへ旅立ちそうになっていた意識が、その背中越しの聴き慣れた声で一気に戻される。俺は条件反射で目を細めて振り返った。 「エリちゃ……エリカ。身体は大丈夫なのか?」 「うん、平気。お昼はもう食べた?青年会の出してる屋台で焼きそば買ってきたんだけど」 「ありがとう。もうすぐ交代だからちょっと待っててくれ」 「はーい」  俺はややそっけない感じを出しつつまた前を向く。次のガキから百円玉を受け取ってハンバーグを突き出す。危なかった、不意にエリカの声が聴こえたもんだから、嬉しくなってしまって思わず家にいるときのような甘ったるい声で返事しそうになってしまった。後輩の前だというのに。  横目でチラリと近藤の様子を伺う。その瞬間、近藤が右手をあげてぐるりと陽気に振り返って叫んだ。 「あっ、エリちゃんさんこんちわーっす!相変わらずラブラブっすねえ!」  くっ、こいつめ。  結局「交代までなら俺一人でもなんとかなるんで、先に休憩入っちゃってください!」という頼もしい後輩の声に無理やり押し出され、俺は一足先に昼飯を取ることになった。 「近藤くん、大丈夫かな。なんか私のせいでワンオペ任せちゃって申し訳ない」  屋台から少し離れたベンチに腰を少し大儀そうに下ろしながら、エリカが呟く。 「いや、逆にイキイキしてるよ。あとでもう一つ焼きそば買っていってやるか」 「だね」  ビニール袋から二つ分の焼きそばを取り出し、膝に乗せて蓋を開ける。いかにも祭りの焼きそばといった感じの安っぽいソースの匂いが大変よい。 「すごいね。子供がいっぱいだね」  エリカは俺たちの間にお茶のペットボトルを一本置いて目を細める。 「そうだな。この中から一人でも俺たちのとこに来てくれたらいいんだが……」 「手応えはどう?」 「そりゃもう大盛況だよ。ハンバーグはな」  冷えた緑茶を喉に流し込むと、熱気に乾いた体に心地よく染みていく。十一月の夏日なんてガキの頃だったら考えられなかった。これだけ暑い日ばかりだと今の子供達が外で遊ばなくなるのも無理はない。  ニードルズのハンバーグ屋台はまだ列が途切れそうにない。ぼんやりそちらを眺めていると、列の中に隣県のプロ球団のキャップを被った子供がいた。今時珍しい、野球帽を被った子供なんて。 「あの子だったら入ってくれるかな?」  同じことを考えていたらしいエリカが焼きそばを啜って呟く。  最近は男子小学生でもお洒落だ。ここに集まっている子供達も、襟付きのシャツやカーディガンなど、素敵なお召し物を着ている子も多い。野球帽を被ったマルコメ君なんてもうそうそうお目にかかれない時代だ。 「まあ、あんま期待はしないほうがいいな」俺は、先程のエリカからの問いに力無く首を振る「ダメだった時のショックがデカい」  空を仰ぐと、束の間雲に隠れていた太陽が再び顔を出し、その日差しの強さに思わず目を瞑る。二十年前想像していた未来はもっと違っていた。車が空を飛んだり、ホログラムが目の前に現れたり、そんな想像上の未来は訪れない。なのに、当たり前に続くと思っていたものばかり失っている。 「今日ね、病院に行ってきたんだ」  緑茶のペットボトル取ろうとした右手が、エリカの口から発せられたその言葉に掴まれたみたいに止まった。 「病院……?」 「うん」  俺のほとんど音にならないような掠れた声に、エリカは小さく頷く。  気圧で耳がおかしくなったように群衆の音が遠くなる。心臓がドクンっと一つ強く跳ねるのを明確に感じた。  次の一秒が遠い。身体の末端器官が続く言葉を拒否するように固まる。左手に持っていた割り箸が指の間を滑り落ちていく。嫌だ。刹那に言葉が脳裏にベタベタと貼り付けられる。嫌だ。嫌だ。嫌だ。  十五年前。母親の顔。馬鹿みたいに大口を開けて笑う顔か、阿修羅みたいに怒り狂った顔しか見せたことのない母が初めて見せた、悲しい笑顔。夏なのに冷たい夜。ブラウン管から流れるバラエティ番組の小汚い声。飼い犬の写真。食後のりんご。知らない体の部位と、よく知っている病の名が左耳から入って右耳を抜けていく感覚。  未来はいつもそうだ。望みは一つだって叶えちゃくれないくせに俺の大好きなものばかりを連れていってしまう。  首を小さく回して右を向く。世界で一番大切な人の方を向く。何も聞こえない、二人だけみたいな一瞬の中で、彼女の桃色の唇が小さく動いた。 「七週目、だって」 「……へ?」  ニッ、と笑った彼女のその悪戯っぽい瞳と声に、俺の身体は空気が抜けるようにヘロヘロと力なく折れる。 「ど、どゆこと?」  俺の間抜けすぎる言葉に、だからー、とエリカは小さなバッグを漁って一枚の写真を取り出す。 「これね、これ。わかる?ここが赤ちゃんの入っている袋なんだって。まだ小豆くらいの大きさしかないらしいんだけど。あと、もう心音も聴けたよ。トクトクトクって、超早いの。びっくりしちゃった」  エヘヘ、とおかしそうに笑ったエリカの顔がキュピズムのように崩れていく。と思ったら、その後ろのグラウンドも、鉄棒も、フェンスも、雲ひとつないこの空も、景色全体が次々に崩れていく。 「ヒロくん?おーい、聞いてるー?」  そう言ってエリカが顔を近づけた次の瞬間、グラウンドがワッと沸いた。反射的に二人ともそちらに目をやる。  ガランガラン、とハンドベルの豊かな鐘の音が秋祭りのざわめきの中に降るようにして響く。 「おめでとーございまーす!大当たりー!沖縄旅行ですよー!!」  聞き慣れた後輩の大声と、テントを包むように巻き起こる歓声と拍手。ハンバーグを持って近藤の前に立つ野球帽の少年が驚いたように、はにかむように母親に抱きついて笑い、父親がよくやったとばかりにその頭をガシガシと揺らすように撫でている。  不意に降りてきた未来に、俺の視界は崩れてゆくばかりで。    
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