エルジアの至宝

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エルジアの至宝

 真円より少し欠けた月は、まるで漆黒の闇に穴を空けたようだった。  西方と東方を隔たる山脈地帯は、その麓を隆起の激しい乾燥した岩場にしていた。  敵の大群は、東西の交易路となる谷部分に絶望するような数を引き連れそこを塞いでいる。  高台からはその夜営の光が渓谷を流れる川のように見えた。  その大軍団のほど近くに、さも馬に逃げられたような荷台だけが残され、着飾った女たちが丸まって肩を震わせる。  傍からは、何かの事故にあって放置された奴隷貿易の馬車としか思えない。  男尊女卑の国の女は安く、しかも慎ましやかで美しい。周辺国では人気の商品だ。躍進的な技術革新を進めている西方あたりは人権がどうのと(自分たちの国のことは棚上げで)そろそろ煩い横槍が聞かれるようになった時代ではあるが、西方以外では中世からさして変わらず、今だ平然と人間の売買が行われている。  しかしそこにいた女たちは悲しみで肩を震わせていたのではない。これから起きることに興奮し、美しく化粧をした顔で笑いをこらえられずにいたのだ。  彼女たちはそれこそ奴隷として売られてもおかしくないほど、祖国エルジアでも貧しい家の生まれだった。現に少し前までは体を売って日銭を稼ぐ生活をしていた。  それがその『体』を高く買ってくれた人がいる。  その『体』を毎日綺麗に着飾ってくれ、生きるために身に着けたその『体』の技術を評価し、さらに十分な学と金を与えてくれた。  カーテンで仕切られた荷台の奥から、彼女らが祖国よりも忠誠を誓うその人と副官の甘ったるい話し声が聞こえている。  カーテンが開かれると、女たちは主人の姿に注目し感嘆のため息を漏らした。  艶やかに巻く長い黒髪、瑞々しく張る小麦色の肌、西方の血が入っているのだろうサファイアブルーの瞳は黒く重いまつ毛に飾られ深みを増している。  その瞳の色に合わせてか、副官が仕上げにと青みがかったピンクの紅を指す。少し幼いように思えるその色が、その人の実際の年齢を思い出させた。 「カワイイヨ、ジャーファル」  副官アンチュは黒い肌にサラサラの金髪、金の瞳を持つ南方人だ。主人に絡みつき片言のエルジア語でその容姿を褒め称えた。  ジャーファル、と男の名で呼ばれたその女が準備を終えて荷台を降りる。  百八十センチに届きそうな長身、いつもはさらしで押しつぶしている乳房が今は豊かに揺れている。大きさの割に重さを感じさせない丸さは鍛えられた筋肉に裏打ちされたものだ。  ここにいる彼女の配下は、同じ女性だからこそ、彼女が女性であったことに今更驚きはない。  ジャーファル・ロア・サーファーブ。    エルジアの第二王子であり、若くして将軍位を与えられて以降負けなし、周辺諸国からも恐れられている戦鬼である。  しかし生物学上は紛れもない女性で、生まれたときから王子として育てられた。それは一応今も継続しているのだが、この数年の成長は、もはや隠しきれないレベルの色香となって周囲を惑わせていた。  腕っぷしも敵わず上官である彼女を鬱屈した気持ちで見上げる男たちの哀れを、女たちはこれ見よがしに笑っているのだ。  作戦のため、女を全開にしたジャーファルは、女を武器にしてきた女たちでさえ息をのむほどの迫力を持つ美女となっていた。  まさにエルジアの至宝。  同性の恋人でもあるアンチュは、過去、彼女に狂ってきた男達を思いほくそ笑む。  彼らは彼女に何を教えたのか。  これほどの美貌と艶を持つジャーファルはまだ十七歳の生娘である。  荷台から離れると音もなく大きな黒い影が彼女にまとわりついた。彼女と同じ黒い毛並みに青い瞳を持つ狼だった。 「パリィ、頼むよ」  パリィはアンチュと同じ頃から彼女に仕える老婆狼であるが、まだまだ衰えを知らぬように軽々と岩場を上っていく。  そして真っ白の月に向かって吠えた。  これが作戦開始の最初の合図である。 「さあ、行こうか。大国の皮をかぶる蛮族に蛮族の戦い方を思い出させてやろう」  外見のせいか、これから始まる作戦の想見か。  ジャーファルのいつも通りの涼やかな少年の声が、今の女たちには、ぞくぞくするような薄暗い色情を含んでいるように聞こえた。
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