2-6.カルナックと陰

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 ジャーファルが女だとわかってから、カルナックは衛士としての時間以外は死に物狂いの特訓を始めていた。  偏にジャーファルを守るためである。  エルジアの夜遅い時間、日が沈むと別世界かと思うほど気温が下がる。体を動かすにはむしろちょうどよかった。  昼間は太陽の眩しさと岩山の照り返しで目が利かないが、夜の方が効くことに気が付いた。昔は動物に怯えていたせいだろう、気配も夜の方がわかるのだ。  庭石を持ち上げてのスクワットをしていると、動物の息遣いが聞こえた気がした。  聞いたことがある、間違いなくパリィだろう。真っ黒のあの狼を闇夜で探すのは難しいが、幸い大理石の白い柱の前を横切るのが見えた。  いくら夜行性の狼と言えど主人から離れて宮殿内をうろつくことはない。おそらくジャーファルが一緒にいるはずだ。  そういえば、あの夜、彼女はどこに行っていたのか。  カルナックは庭石を下ろすと急いでパリィの後をこっそりと追った。  下手な尾行はパリィに気づかれる。カルナックはある程度距離を取って後を追った。  すぐにパリィの前には白い霞のような夜着のジャーファルがいるのがわかった。  彼女は裸足で回廊を進み、アクバルの部屋の方に向かう。  獣よりも気配なく、まるで幻のように進んでいってしまう。  夜中に逢引きか、しかしアクバルとは兄妹、異性でもアクバルは間違いを起こす男ではないので情事に発展することはないかと少しほっとしたが、ジャーファルは兄の部屋の前を通り過ぎ、奥の階段に進んでいってしまった。  衛士は主人の部屋と共有施設のあたりしか出入りしないので、その先に何があるかカルナックは知らない。  狭い階段なので向こうから降りてこられたら簡単に見つかってしまう。カルナックはパリィの気配が十分に遠ざかってから階段を上り始めた。階段は数段上るとすぐに突き当たり、その先からは螺旋状になっている。  上から冷たい空気が降りてくるので屋上か、それに類する場所のようだ。  階段の終わりは小さな塔の中のような狭い部屋だった。階段の終点がそのまま部屋になっており、ジャーファルはそこでパリィで暖を取りながら外を眺めていた。  頭だけそこから出していたらパリィと目が合った。  今さらだろうとカルナックは残りの階段を上がりきる。  ガラスもはまっていないむき出しの窓枠に肘をついていたジャーファルが振り向く。 「カルナック?」 「…見かけたからついてきちまった」 「そう…」  別に驚くわけでも咎めるわけでもなく、彼女は再び外に視線を戻した。  パリィを挟んで隣に座って、カルナックもそこから外を見るが何があるわけでもない。ところどころに街明かりのようなものが見えるがそれだけだ。  なのにジャーファルの視線はまっすぐで、そのサファイアブルーの瞳が夜風に冷え切っていた。カルナックは上着を脱ぐとジャーファルの肩にかけた。 「パリィがいるから大丈夫だよ」 「見た目が寒そうなんだよ!」 「汗かいてた?冷やさない方がいいよ」 「平気…っ」  強がった途端にくしゃみが出てしまった。  自分の恰好つかなさに情けなくなるが、ジャーファルが笑ってくれたのでそれで良しとする。  返された上着をありがたく着なおす。 「何見てんの?」 「何を見てるんだろうね…」  口元は笑みを作っているが無表情、悲しみか、そういう顔に覚えがある気がした。  塔が向いている方向は星の位置から北東。 「北部戦線が見えるのか?」  カルナックの言葉にジャーファルの目が見開くが、すぐに元の無表情に戻る。 「見えるわけないよ」  北部戦線は中央都からはいくつも山を越えた向こうだ。  それでもジャーファルは間違いなくそこを見ている。  そこにいる人を見ている。 「…そんなにヤークトが好きか?」 「………わかんなくなった」  それまで妄信的と思っていた彼女の言葉にカルナックは息を飲んだ。  ジャーファルはぽつぽつと続ける。おそらく彼女は、こういう話を誰かにしたくても出来なかったのだろう。カルナックもかける言葉がなく黙って聞いていた。 「今まで、ヤックがいるのが当たり前で、それがずーっと続くと思ってた。  今だけ我慢すれば、いつかヤックのお嫁さんになって、二人で幸せになるって思ってた。  でも、ヤックがいなくなったら、みんな、離れられてよかったって言う。  ヤックのしてることが良くなかったって言う。  経典読んだらわかったよ。  ヤック、しちゃいけないこといっぱいしてる。  でも…だから何?ヤックは嘘はついてないよ。…私のこと好きって、大事にしてくれた。  …ヤックがいなくなってからみんな悪く言うの、勝手だよね……」
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