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2-7.狂った一族
エルジアに四季はない。一日の気温差は激しいが、年間を通して乾燥して高温なのである。しかし地域差は当然あり、北方に近い北部地域にはそれなりに季節があり冬には雪もちらつく。エルジアの外、もう少し大陸内陸の遊牧民が暮らすあたりなら薄く積もる程度に降る。乾燥していることに変わりはないので、寒さは厳しいが大雪となることは珍しい。
北方地域に中央軍が派遣されたのは冬の始まり、そしてそろそろ、その冬が終わる季節になろうとしていた。
アンチュの言っていた通り、エルジアは多数の戦死者が出るような戦争はしない。どこの国でも基本はそうだろう。
今回の北方進行も遊牧民が大人しい時期を狙った砦の強化が主な目的であり、時折矢が飛んでくるものの戦死者はほとんど出ていない。
もちろん東方の朱や北方のノーザンドのような大国が相手となればどうなるかはわからないが、砦の強化はそのための予防策でもある。
手の中で小さな銀の腕輪をいじりながらヤークトは闇夜に白い息を吐きだした。
砦の屋上では、昼間は兵士たちや資材がひっきりなしに行き来する場所だが、夜は耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。
「まだ起きてるのか?」
ノーザンドの者が着るような毛皮の上着を羽織ったディルガムはヤークトのほど近くに腰かける。思わず腕輪をポケットに突っ込んでしまった。
「隠すことないじゃないか。…ジャーファルのだろう?」
「…ああ…」
宮殿を引き払う時にスードが見つけ、ヤークトに届けてくれたものだ。
兄弟の証にとアクバルと出会った最初の誕生日に彼から賜った。
今はもうきつくなり、それでもジャーファルは大事にベッドわきの小物入れに入れ、時々眺めていた。
再度手に取って眺める。
成人前の王子はいつ死ぬかわからないため国費はほとんど掛けられない。後ろ盾が必要な理由も主としてこれである。成人まで育てば後ろ盾の地位が盤石となるのだから、ハレムがあったころは野心ある高官家がこぞって王子の誕生と共に名乗りを上げたものだ。
現在の王子はどちらも母親がその高官の娘であるため、生まれる前から後ろ盾が決まっていたようなものである。
今思えばアクバルは、ねだればこういった物を作ってもらえる強固な後ろ盾を持っていた。彼の宮殿、優秀な侍女達、すべてアクバルを思って金をかけていることが伺えた。
しかしジャーファルはどうだったのか、用意されたのは困らない程度の家具と衣服のみで、殺風景な宮殿住まいを強いられた。それ以外の本や武具などもほとんどは西宮の流用品でジャーファルのために新たに用意したものではない。
もちろんものを与えるのが愛情のすべてではないこともわかっている。亡き将軍は後ろめたさもあり遠慮がちではあったものの孫を愛していたはずだ。
しかし王子の後ろ盾としてはあまりにお粗末だった。ヤークトにとっては干渉されずに都合がよかったが、いざ自分が離れてしまったらジャーファルには何が残るのか。
カルナックとアンチュが彼女についているのが見えたし、おそらく侍女もアクバルが手を回してくれているのかもしれない。成人王族となれば掛けられる国費の桁も変わる。
それでも、もし王と同じ壇上で彼女が不安げに自分を見ているのがわかったら、見てしまったら、何もかも滅茶苦茶にして彼女を攫ってしまうのではないかと、自分が怖くて顔を上げられなかった。
気が付くと、手にしていた銀の腕輪をディルガムの手が覆っていた。
「光るものは奴らの標的になるかもしれない」
「こんな夜中にか?夜に弓矢が使えるわけないだろう」
北部に攻め込むのは主としてノーザンドに追われた遊牧民族である。彼らはいまだに焚火くらいしか夜を照らす方法を持たない。
そもそも今日は新月だと空を見上げようとしたら、すぐそこにディルガムの顔があり見上げるのをやめた。
その顔が耳元に移動し囁く。
「…まだ礼を聞いてないんだよな」
「何の?」
「牢から出して俺の副官にしてやったんだ。これだけ上官なら叔父上も口出しできまい?」
「その後すぐにこんなところまで引っ張り出されるとは思ってなかった…」
「まあそこは俺の副官なんだから諦めろ」
ようやくディルガムは離れ、元の砦の縁に座りなおした。
「…お前は少しジャーファルから離れるべきなんだよ。…そもそも、あの時、お前を南方から返すべきではなかった」
「何を言っている?」
「あの時返さなければ、お前がジャーファルの傍仕えになることもなかった。…ファーティラを無駄に追いかけていた方がマシだった」
ヤークトには本当にディルガムが何を言っているのかわからない。
呆然とする彼を、いつもの伏目をやや開いてディルガムは見る。
「そうすれば不幸になるのはジャーファル一人で済んだ」
その言葉にヤークトが激昂する。むしろ、ディルガムはヤークトの怒りを誘っているようだった。
「ふざけるな!元はと言えば…あいつは、将軍家の都合で王子にされたんだぞ?!」
「叔父上の都合だ」
「正規の後見人はお前のはずだ!何も…、しないで…っ!」
「落ち着け!ジャーファルのことになるとお前は人が変わる」
どこに隠し持っていたのか、ディルガムは酒瓶から金属の杯に液体を注いで差し出してきた。ヤークトはそれをひったくると一気に煽ってしまう。熱くなっていた頭の熱を喉に持っていかれるような強いアルコール度数の中に妙な苦みを感じた。
「…何か入れたのか?」
「鎮静剤…みたいなものだ。まあお前には効かないだろうが少しは落ち着くかと思って」
どれだけ入れたのか、薬も過ぎれば毒だ。
いつもの作り笑顔で平気で毒を盛る従兄に、それでもその薬が効いたのか、ヤークトはため息をついて、いつの間にか立ち上がっていたのに気が付き腰を下ろした。
ディルガムはヤークトの空の杯を取り上げ、それで平然と手酌をする。
「もうここに来て半年近くになるな。少しは落ち着いたかと思ったが、またぶりかえしてきてるだろう」
「…帰りたい。…ジャーファル…」
他人に隙を決して見せない、俄かなのに副官として申し分のない従弟があっさり弱音を吐く。ディルガムは作り物ではない困った笑みで白い息を吐きだした。
「もう少しで撤退だ。我慢しろ」
「ああ…」
「ジャーファルのことも、考えるなとは言わないが、お前は思いつめ過ぎだ。近くにい過ぎるから同性愛の嫌疑が懸けられるんだ」
「…同性愛じゃ…」
「相手は王子だ。ジャーファルが女だって言うのか?王子が相手じゃ未遂でも処刑は妥当だぞ」
あの時はジャーファルがまだ成人前で、目撃者のムスラファンが、ジャーファルを脅すためだろう、正規の手順を踏んでいなかったため有耶無耶にできたに過ぎない。
どうやったら逃げられるのか、二人で生きられるのか。
それを考え実現しなければいけない時が近づいているのに、女らしく成長してきた体を前に、ヤークトは最後の理性を保つのに必死で何も考えられなくなっていた。
しばらくすると薬とアルコールのせいでそんな思考すらできなくなってきた。
「寝る」
立ち上がると酩酊で体がふらつく。いつかもあったように従兄がすぐに体を支えてくれた。
冷たくなった頬に唇が付きそうなほど近くで囁かれる。
「俺の部屋に来るか?」
「冗談」
酩酊はしていても意識がなくなるほどではない。
従兄を振り切り、ヤークトは砦の屋上から一人降りて行った。
それからほどなくして中央軍の一部撤退が決まりディルガムは中央へ帰還、ヤークトは残留を命じられ北部をしばらく任されることになった。
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