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2-9.交わる人生
夕方のパリィの散歩の付き添いは、それからカシムの日課になった。
パリィは六年前からジャーファルに付き従う黒毛の雌狼である。昼間は大体寝ているが、気温の下がる夕方から活動的になる。
西宮本殿の広間を抜けた先の裏口から宮殿を出、鎖を外した途端にパリィは飛び出す。その後を弓矢を携えたジャーファルが追う。カシムもそれに同行し、その後、少し離れてカルナックとアンチュも追うのだ。
狼と同じ速度で走り、巨石も転がるような荒れた丘の中腹をジャーファルは跳ねまわる。少し目を放すだけで見失しないそうになりながらカシムはほぼ毎日全力疾走を強いられた。
やっと姿を捉えたと思ったら、弓矢を構えて鳥を撃っている。この王子、走りながらという前線の兵士でもなかなか出来ない芸当をこともなげにやるのだ。
カシムは息を切らせながら苦虫を噛む。
撃ち落された獲物をパリィが空中でキャッチしたことで、カシムはやっと一息つけると足を緩めた。
ジャーファルはパリィから一度獲物を取りあげると、矢と堅そうな羽を毟ってから彼女に与えた。
同じ顔をした近衛の二人は少し離れたところで見ているのみで、ジャーファルに代わって獲物の羽を毟ったりそんなことはしない。
同じ顔をしているが、カルナックの視線が日に日に厳しくなるのを感じる。
磨きぬかれた見目麗しい王子。弓も武術も相当な腕を持つ。
なのに野営に慣れ、荒野でも平然と暮らしそうな変な生命力を感じる。
ぼんやり狼と戯れる姿を見ていたが、瞬間、視界からその姿が消えたので、焦って後方に下がった。
カシムの足元の掬おうと蹴りを空振りさせたジャーファルが笑いながら立ち上がる。
「ぼーっとしてると思ったのにな」
「てめぇ…」
ジャーファルがこうして飼い狼の散歩にカシムを連れ出すのは、その実力を見たいがためだ。何度か手合わせはしてもカシムは基本防戦一方で、だが負けるわけでもなくひたすら躱すのみなのである。
瞬きする間に、今度は目の前に蹴りが飛んできた。寸でのところで受け止め、勢いを殺すために体を反らす。それが軽くなったと思ったら、掴まれた足を軸にして上から反対の足を振り下ろしてきた。
まるでアンチュの曲芸技だが、こんな不安定な体勢でも食らったら地面に叩きつけられる。ジャーファルの蹴りの方が格段に重いのだ。蹴りが当たる前に持っていた足ごと体を投げた。
その勢いでカシムの方が地面に両手をつく格好になった。
少し離れたところでジャーファルも上手く着地した。
「カシムはほんとよく見てるよね」
パリィが新たな獲物を見つけたのか、再び走り出したので、ジャーファルもその後を追って走って行った。カシムも両手の砂を払うとその後を追う。
何故防戦一方なのか。これはカシムのトラウマである。
子供時分に幼馴染の友人に喧嘩で怪我をさせてしまった。きっかけは覚えてもいないようなつまらないことだったはずだ。
だが仲直りも出来ず、彼の怪我も治る前に二人は徴兵され、その友人は戦死した。喧嘩の怪我のせいかはわからないが、そのことでカシムは人に対して拳を振るうことが怖くなった。
なのでそうしなくていいように人を見るようにした。こちらが攻撃しなくても相手の動きを見て躱せるように。攻撃するとしても基本型を忠実に行うのみ、しかしそれが評価され訓練教官を任されるようになった。
アンチュを新兵の競技会に選んだもの、自分が見ていた新兵の中で彼女が一番強く見えたとそれだけだ。
何度目かの散歩のなかでジャーファルにそれを話した。
彼女はただ、子供らしくなく笑っただけだった。それを聞いてもカシムに攻撃させようと隙を見ては挑発するように仕掛けてくるのだ。
やっと追いついたと思ったら、走りながら振り返りざまに手刀が打ち込まれた。どこを狙えば相手が崩せるか、わかっているような位置に来る。防御できない位置、だから攻撃に攻撃で返すしかないのではないか、それを狙われているのがわかる。
訓練教官の自分が久しぶりに訓練させられているようだった。
訓練教官になってからのカシムが訓練させられた、と思った相手は一人しかいない。
その男の影が彼女の背後にちらつく。
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